ヨクイキル
嫌がらせのように日程の最後にあるのが数学だ。
巧は数学が苦手だ。計算ミスをするからである。解けない問題は後回しにする。猫実さんが言う通り、問題はあてもなく出ているわけではなく、授業中に教わったのものがメインだった。
数学も結局暗記が大事なのか。
高校教育の一種の闇を見た気がしたが、そのおかげで点が取れているわけで、何も言えない。
気を取り直して、見直しに集中する。
監督の教師が何かしら声をかけてきた。残り時間が少ないらしい。
答案は、前回よりも埋まっている。文藝部に集まって勉強した成果が出たみたいだ。
どうすれば上手くなるのかあやふやな小説と比べれば、勉強の方がやったぶんだけ伸びるのでいくらか気が楽だ。そんなひとつの物差しが巧の心の中にできたようだった。
チャイムが鳴った。
決まりきった手順で答案が回収される。
「起立、きおつけ、れい!」
委員長の号令が終わった途端に、教室が明るい開放感に包まれる。期末テストが終わった。明日から、夏休みである。
ここで何もなかったら小説を書きまくろうと膨大な自由の前にあったりするところだが、今日は違う。
浮ついた気持ちで、教室を出る。
足取りが軽い。埃っぽい地下部室棟がなんだか財宝が隠された秘密の洞窟のように感じる。
文藝部のドアをノックして少し待つ。
しばらくするとドアが開いて、夜桜先輩の整った顔が隙間から見えた。
しばらく二人で猫実さんを待つ。
「、、、テストできましたか」
テストが終わったあと恒例の質問を先輩が聞いてこないので、仕方なく巧が言うことになった。
「ん、できたよ」
「そうですか、」
この人のできた、はホントにできてるんだろうなぁ。それを言っても、先輩の機嫌が悪くなるだけなので、違う話題を探した。
「小説はどうしたら、上手くなるんでしょうか」
結局、巧はさっき考えていたことを先輩に話すことにした。
先輩の目がこちらを向いた。黒い目が次の言葉を待っているようだった。
「みんなと一緒に勉強して、どうしたら点数が取れるか、わかったんです」
ここでの会話は、普段家族とするような会話とは違う気がする。もっと丁寧に、筋を踏んで話さなくてはいけない。
「でも、小説はどうしたら文章が上手くなるとか、いいものが書けるのかとか、つかみづらい気がするんです。」
「うん」先輩が頷いた。何か面白いのかうっすらと微笑んでいる。
巧は質問をするつもりが、自分のなかだけでで完結してしまったことに気がついて慌てて、先輩はどうですか、とつけ足した。
「あ、私?そうだな」
そういえば、今までそういった質問は避けてきた気がする。
「うーん、上手くいえないけど、『善く生きる』ことかな」
少し照れたように先輩が言った。
「ヨクイキル、、、」
上手く聞き取れなくて、おうむ返しをしてしまった。楽しそうに語る先輩に少し見とれてしまっていたからかもしれない。
「善く生きる、だよ」
先輩が胸ポケットに挿していた万年筆のキャップを外した。そばにあった紙に先輩がわかるように書いてくれた。
金色のペン先が、紙の上で軽やかにに踊った。青いインクの跡がが流れ星の尾のように音もなく浮かび上がる。
線になり、文字になり、そして意味になる。
「善く生きる。」白い紙の片隅に書かれた言葉を口に出してみた。ブルーブラックのインクの色に、海のような優しさを感じる。
「そう」先輩が頷いた。
ゆっくりとしたコミュニケーションがそこにあった。
「ただ生きるのではなく、善く生きること。、、、ソクラテスが言った言葉だよ。」
「なるほど」
ソクラテスって誰だっけと言いたくなったが、今は気にしないことにした。
「君ならこの言葉をどう解釈する?」
先輩が足を組んだ。太ももの上に肘をついて、手を口元に持っていく。唇が少しつり上がった。冷たい高揚が、急激に場を満たしていくようだ。
巧は、ざわついていた教室に先生が入ってきた瞬間、引き締まる感じと似たものを感じた。
つまり、人の放つ迫力。
「答えの代わりに、問いをあげよう」
挑戦的な目が、巧を捉えた。




