書く理由
次の日の昼休みもなぜか、巧は文藝部のドアの前に立っていた。別に呼ばれたわけでもない。何かを探しているわけでもない。手には猫実さんのアイデア帳を持っている。昨日、受け取った時の感覚が忘れられない。興奮が今でもノートから体に伝わってくる。昨日はそれを枕元において寝た。授業中でも、ずっと机の中で手に触れていた。まるで世界が明るくなる魔法を手にいれたみたいだった。黒板に書かれる文字が一つ一つ輝いているように見えた。そういえば、休み時間に感じる寂しさは今日はなかった。
ドアが開く。誰もいない部室棟に柔らかな声が響く。
「君、私のことも大好きなんだね」
「は…。」
呆れたように笑う顔に、巧は一瞬赤面して、それから肩の力を抜く。
「…もう、そういうことでいいです。」
と言うと、先輩は鼻先で笑って、
「安い大好きだな」と言った。
「先輩のせいです。」
と愚痴気味に反抗する。本当は猫実さんに言いたい言葉なのに。ささやかな純情を返して欲しい気分になる。そんな巧を軽くあしらうように、先輩は部室に招き入れる。
「で、今日は何?」
「いや、特に…。」
「何もないのに会いに来てくれたのかぁ。」
先輩は大袈裟に反応する。
「あの、いちいち色っぽい方向に持って行かないでください。」
「フッ、今までの歴史の中で人間が恋の話をやめたことは一度もない。」
そういう壮大な話をしたいわけではない。
「あの…」
巧は心地よさそうにおどける先輩の横顔に声をかける。先輩はゆっくりと視線を戻す。巧は言う前から、先輩が自分の言いたいことを知ってしまっているような気がして、不思議な気持ちになる。
「はじめは、先輩のために書くって言ってたのに、なんかすみません。」
巧はなるべく、目を見て言った。やがて、力が抜けたように目を合わせられなくなった。もう一度、視線を戻すと先輩はいつものようにほほえんでいた。
「…なんだ。『何もない』わけじゃないのね。」
巧の深刻さを包むように、先輩はただほほえんだままそれを崩さなかった。巧もその笑顔に少しづつもたれかかるように、表情を解いていった。それでも笑うことまではできずに、どうすればいいのかわからない顔のまま前を見続けていた。
「別にいいよ。君がネコの思いを形にしてくれるなら、それだけで嬉しい。私だって完成するのを楽しみにしてる。」
そういわれて、巧はまたわからなくなる。何かをゆるされて、そこが抜けたように不安定になる。それと同時に、優しい何かに包まれた穏やかな心地よさがある。
「僕でいいんですか。まだ書き始めたばっかりなのに。書く資格があるのかなって。」
そんな、どうしようもないことを言う。どうしようもないが、聞かずにはいられない。
「書く資格か。そんなこと考えなくていいよ。」
先輩は、ただ前を見て独り言を言うように言った。巧はその横顔を必死に見る。
「何が書けるなんて誰もわからないよ。書く資格じゃなくて、書く理由に支えられて人は書くんだ。君にはもうそれが十分備わっている。だから、大丈夫。」
先輩は、ゆっくり言い聞かせるように巧に言った。目を細めて、窓から差し込む光を見ていた。その目には揺るぎない何かが宿っていた。それはおそらく、巧が書いてきたよりもずっと多くの文章を書いてきた自信のように思えた。その勇気を分けてもらうように、何も知らない巧はうなずく。
「私が、ネコのために書いても意味ないでしょ。君にしかできない。君は本当にいい仕事をもらったんだよ。」
先輩はまた笑う。
「がんばります。」
励ましてくれる言葉に、簡単な言葉しか返せない。できることなら、今すぐにでも書き始めたいと思う。