笑顔
「それで、”あのこと”は言えたかい。」
夜桜先輩は巧に視線を投げかける。
「あのことって…何ですか」
投げかけられた視線。わかっているのに、わざわざ確認してしまう。こんな風に廊下を歩きながら、大切な話をしてもいいのだろうか。
猫実さんはきょとんとしている。
「今日の昼休みに話したことだよ。」
先輩は、何も特別なことではないように、さらりと言った。その穏やかな口調に巧は目が覚めるようだった。ただ、自分が猫実さんにしてあげたいことを、申し出るだけ。気負うことも、怖がることもない。ただ、先輩が自分たちにしてくれるように、自然に言ってみれば良い。
「あの、このあいだ、猫実さんが見せてくれたアイデア帳の小説、書いてみたいです。いや、書いてあげたいと思いました。」
目が大きく見開かれる。猫実さんは突然、思いもしない話が始まったことに驚く。その目に向かってなるべく冷静に言葉を選んだ。原稿用紙に向かうような、静かな気持ちで。
「僕にとって、助けたい人は猫実さんだから。書くことで、猫実さんの役に立ちたいと思いました。よかったら、もう一度アイデア帳を見せてくれませんか。」
猫実さんの目が揺れた。そして、立ち止まる。巧も、正面に立って立ち止まる。
「いいんですか。」
絞り出すような声で、猫実さんは言った。
「はい。」
巧はうなずく。今まで感じたことがないほど、柔らかい気持ちでいることに気がついた。猫実さんの目の動きや、息遣いまではっきりと感じられる。体が透明になって、目の前で起こっていることが、ありのまま通り過ぎていく。
「ありがとうございます。」
猫実さんはまっすぐ立って笑った。その笑顔にまた巧は救われた気持ちになる。その笑顔さえあれば、何があってもきっと書ききることができるだろう。巧はそう信じた。
「よかったね。」
先輩はそう言って、ゆっくりとまた歩き出した。猫実さんは「はい。」と元気に返事をして、弾むように歩き出した。
その後ろ姿を見ながら、巧は先輩が自分にも笑いかけてくれていることに気がついた。巧は胸の中にあった重いものが、すっと軽くなったような気がした。いやでも嬉しさで浮き足立ってしまう。廊下を駆け出したくなった。