書く者の目
「で、なんでここに来たの?」
夜桜先輩は、顔を上げる。ディスプレイの文章を見る時そのままの鋭い視線でにらみつけられて、巧は今までの行動を全て後悔したくなる。
「えーと、とりあえず昼休みに一人で過ごしている人の話を聞いて、回ろうかなと思いまして…ですね。」
「ふーん。」
先輩はかたりと、文を打ち込んで手を止めると、パソコンを閉じた。長い腕と指で少し荒々しい感じの所作である。
「で、いろいろ頑張ろうとしたけれども、いきなり知らない人に声をかけるのはやっぱりできなくて、十五分ぐらい迷ったあげく、私のところに来たという所だね。」
全てを見透かされ言語化されると、一々、恥ずかしい気持ちになる。
「あの…あんまり鍵カッコで説明しすぎない方が…いいんじゃありませんでしたっけ。」
「うるさい。」
なけなしの小説知識で反抗したが、一蹴された。
「すいません。」
と巧がしょんぼりすると、先輩はパッと空気を切り替えるように手をたたいた。
「まあ、とりあえずお弁当食べな。相手してくれるんでしょ。」
ガラガラと差し出された椅子に巧は腰を下ろす。相手をすると言ったが、もうその体力はとっくに削がれて消えかけている。
文藝部の部室は新しくなっていて、今までの埃っぽい地下から、さっぱりした新部室棟の一角に引っ越したそうだ。引越しと言っても、机と椅子の配置はそのままで、先輩が座るための机と、来客用の机ぐらいか。来客と言っても、いつ来るかわからない巧や猫実さんのためのもので、普段は書類や本で埋まっている。邪魔するならここに座れ、と言った風に案内される。
巧は動かしていいのか分からずに、弁当箱を膝に置いたまま、散乱する紙を一ミリづつぐらい手でずらしてスペースを作ろうとした。
見かねた先輩は、「はいはい。」と紙をひとまとめにして、閉じたノートパソコンの上に置いた。
巧はようやく見えた机の木目に、弁当箱を乗せる。
先輩はバッグから無造作にパンを取り出して、机の上に置いた。ビニールに包まれた、申し訳程度の寂しいパンだった。その途端に、巧の中の「猫実さん」がとっさに反応した。
「何見てるの?」
巧がいるのにもかかわらず、パンを噛みながら、考え込んでいる先輩の横顔をずっと見ている。
「あ…パンだけでお腹一杯になるのかなと思って。」
先輩はふっと真顔になって巧を見た。巧も箸を止めて、見つめ返す。思いがけない沈黙に、巧は息がうまくできない。しかし、先輩はとつぜん崩れるように笑顔をこぼした。
「君、優しいねー? よしよし。」
と高い座高から巧の頭をぽんぽんとなでた。いきなり褒められて、巧はゆるゆると何も考えられない状態になる。
「大丈夫、このパン美味しいし。というか、書いてる時は食欲なくなるの。」
「へえー。」
そういう夜桜先輩を巧は憧れのまなざしで見る。書くことが体にまで作用する。そうなるほど没頭してしまうような体験をしてみたいと想うのだ。
「というか、君の方こそ大丈夫?」
先輩はやっと目に入った巧を見て、観察し始めた。見たものを言葉にし、物語を作り、想像の世界に飛躍する、鋭い目で巧を見た。
「今頃、ネコ一人なんじゃないの。」
「そうですね…でも試しにやってみるというか。」
「そうじゃなくて…もし『巧さんがいなくてさみしいにゃあ』とか思ってたらどうするの?」
夜桜先輩は猫実さん風に、ちょっと声を高くして机に肘をついたまま、パンを持たない片手で猫の仕草をした。
「いや、そんなことは思って…ないのかな…。というか、猫実さんは猫語で話しません。」
巧は頭が撹乱され情報処理が間に合わなくなる。
「巧さん浮気してないかにゃあ。」
「ちょっと…。」
「あっあれ、これ浮気じゃないの?」
夜桜先輩がわざとらしく驚いた風に軽くのけぞって巧の顔をみる。
「いやいや、そんなつもりはありませんって。」
巧はまた泣きそうになるぐらい顔を赤くして抗議する。
「ふーん。私は眼中にないってことかな。」
先輩はほおを少しふくらめて、横目でにらみつける。
「いや、ちがっ…。というか知ってて言ってますよね。」
「何を?」
「……くっ。」
巧は言葉でみぞおちを突かれる。米粒を吐き出しそうになる衝撃に耐えて飲みこむ。
「ぼ、僕が猫実さんのこと好きだって言ったじゃないですかあ…。」
命乞いのようにいうと、先輩は、
「ああ、言ってたね。」
と今更、うんうんうなずく。
「大好きですとも言ってたね。」
「そうでしたっけ…。」
「大大大大大好きとも言ってたね。」
「そ、そうでしたっけ…。」
「うん。」
夜桜先輩は笑いながらうなずく。
今までの人生で、「大」をそんなに重ねて言った記憶はないが、ひょっとしたら自分ならそんな表現をしかねない。それぐらい、好きだといえば好きだからだ。
「じゃあ、そんなに好きな人がいるなら浮気じゃないか。」
「うん、はい、そうですって。」
やっとわかりましたか、と安堵しかけたその時、
「じゃあ、私のことはどのぐらい好きなの?」
と先輩がきいてきた。そのあまりにも軽々しい口調に、もしかしたら自分の言っている「スキ」という二文字は先輩のものとまるで全く違う意味をしているのではないかと思った。
「たぶん…先輩のことは先輩として、好きなんだろうと思います。」
巧は言った。なんだか、初めて知らない言葉を使うみたいに、照れくさい気持ちになった。
「ふーん。それってどういうこと?」
と先輩はすとんと、沈み込むような言葉を投げた。そのとたん、会話は日常をはなれ、根本的な部分に急降下する。そして、それはもう引き返せない加速度で落ち始めている。
先輩の目はまた何かを見据えて、鋭かった。