王子
目の前にある碧の瞳が、水面のように大きく揺らいでいた。
「本当に……ロディ、なんだ……。生きて、た……」
王子とは思えぬ程、頼りない呟きと涙を流すアルティウス・ソル・フォルモンドの表情にアイリスはどこか拍子抜けのようなものを感じていた。
「──王子! お待ちください!」
先程、アルティウスが出てきた部屋から彼を追いかけてくるようにいくつかの声が聞こえ、はっとアイリスはそちらへと首を伸ばすように向ける。
アルティウスも呼ばれたことに気付くと、すぐに瞳に浮かんでいた涙を拭い、凛とした面立ちに戻ってから返事をする。
「その件については午後から協議すると言ったはずだ」
数歩、歩みを戻して、追いかけて来た政務官達のもとへと身体を向ける。
政務官達は壁際に立っているアイリス達を一瞥したが、すぐにアルティウスへと視線を戻した。
「ですが、ジャルディ侯爵は急ぎ、条文を陛下へと……」
「どんなものもしっかりと協議しなければ、後々困るのは我々だけではない。侯爵の自己満足のために、波に乗せられるな」
先程とは違う、はっきりとした王子の物言いを受けた政務官達は姿勢をすぐに正す。
「はっ、はいっ……!」
「出過ぎた真似を……」
「いや、いいんだ。侯爵から急ぐようにせかされたんだろう? 私からも一言、何か言っておくよ」
「ですが……」
「構わないよ」
政務官が持っていた資料をひょいっと取り上げて、アルティウスはにこりと笑う。
「もう、お昼だ。君達もゆっくりと昼食を摂って来るといい。侯爵は時間を待てない紳士ではないだろう?」
真面目で凛とした声色からどこかおどけた物言いに変わったことで、政務官達から小さな笑いがもれる。
……なるほど。これがアルティウス王子か。
噂では今や国王の右腕とまで言われるほど、政務を滞りなく行う彼は聡明で人望も厚いのだと聞いた。
そして、彼こそがクロイドの双子の弟なのだ。
「では、お言葉に甘えて、昼食を摂らせていただきます」
「ああ。政務は一時間後くらいにまた、始めるよ。──そうだ、少しだけ行儀が悪いかもしれないが、中庭の温室へ私の昼食を運んでくれないか。この資料を落ち着いた場所で読みたいんだ。それと一人で静かに考えたいから人払いを頼むよ」
「畏まりました。給仕の者にそのように伝えておきます」
政務官達と同じ方向へと歩みを進み始めるアルティウスが、ちらりと視線だけをこちらに向ける。
どうやら、このあと中庭の温室へ来い、という意味が含まれた視線なのだろう。
クロイドの代わりにアイリスが小さく頷くと、アルティウスは何事もなかったように政務官達と会話をし始める。
やがて彼らが廊下の角を曲がり、話し声も聞こえなくなってから、アイリスとクロイドは深い溜息を吐いた。
「──はぁ……。驚いたわ。まさか、王子と鉢合わせするなんて」
「……この部屋は政務官達の机が並んでいる場所なんだ」
「わざわざ王子が出入りして、意見を述べているってことね」
だが、アルティウスの顔がクロイドにそっくりで本当に驚いた。どのような性格なのかはまだ分からないが、思っていたよりもしっかりしていそうだ。
「それで温室とやらに呼ばれているけれど、行くの?」
「……まあ、あまり行きたくはないが……。アルには俺が死んでいると伝えられていたからな。その辺りの話をしておいた方が良いだろう」
魔犬の呪いを受けたクロイドは仲が良かった弟にさえ会うことが出来なくなり、やがて表向きには死んだことにされてしまっている。
やはり自分の身にどのようなことが起きて、死んだことにされたのか、ちゃんと説明しておきたかったのかもしれない。
「……あいつは恨んでいるだろうな」
「え?」
「母上を失った同じ気持ちを知っているなら、俺のことを憎んでいてもおかしくはないだろう?」
「……でも、そういうことは、ちゃんとお互いの気持ちがどういうものかを話し合わないと分からないものよ。勝手に決めつけるのは相手にも良くないわ」
引き留めるようにクロイドの腕を掴むが、その腕に力は入っていなかった。
「……行くかどうかはあなた次第よ。私はそれに従うから」
どこか遠くを見つめるクロイドの黒い瞳は薄く閉じられ、そして、再び開かれる。
「──行くよ。もう、俺は目を逸らしたまま逃げていていい、立場じゃない」
言葉は少し弱々しいがはっきりと意志が込められた力強い瞳は前だけを見つめていた。
「……私も付いて行ってもいいの?」
「むしろ、君が傍に居てくれた方が精神的に助かる」
「分かったわ」
「……行こう、こっちが中庭だ」
ふっと短い息を吐いてから、クロイドは動き出す。
いつもは大きく見える彼の背中は何かに怯えるように小さく見えた。




