自覚
その日の全ての授業が終わったあと、ミレットに言われた通りにアイリスは教室で一人、時間を潰していた。ほとんどの生徒は帰宅しており、学園内に残っている人は少ないだろう。
……今日は急ぎの任務がなかったから良かったけれど、一体何をするつもりなのよ……。
溜息を吐きつつ、肘をつきながら窓の外を見る。授業は終わったと言っても時間的には、まだ15時過ぎくらいなので外は明るい。
ふと足音がいくつか聞こえた気がして、アイリスは教室の扉の方へと視線を向けた。
「あ……」
教室内に入って来た人影はそこで思わず声を漏らしていた。その声の主は日頃から自分に恨むような視線を向けてくる女生徒二人だった。
彼女たちは席に座っている自分の姿を見つけると、露骨に嫌そうな顔をして、ひそひそと何かを話し始める。
……なるほど、こういうことね。
アイリスは隠すことなく、深い溜息を吐く。ミレットがこの二人を呼び出したのだろう。
だが、ここで彼女たちと何を話し合えというのだ。聞く耳だって持たないだろうに。
それに自分も前に比べたら短気ではなくなった。そっとやちょっとの嫌味程度に反応したりしない。
「……ええ? じゃあ、色んな男を相手にしているっていうの?」
「それだけじゃないわ。成績のために裏で、学園の偉い人とお金のやりとりもしているらしいのよ」
どうやら自分についての悪い噂をわざと聞かせているのだろう。根も葉もない噂を無理に聞かされるのは何とも気分が悪い以外に言いようがない。
確かミレットの情報によると、本人の目の前で悪口を続けている二人は学年の中でもそれなりの成績らしい。しかも家が貴族だったり、富豪の家だったりと金と地位を持っている家の出身だと聞いた。
だが、一方で自分は何も持っていない平民そのものだ。家族もいないし、地位も富もない。
……自尊心が傷つけられたとでも言うの? これだからそれだけ、しか見ていない人間は嫌いなのよ……。
従兄弟と呼びたくないが、従兄弟のジーニス・ブルゴレッドと同じような分類の人間だ。
これだったら魔力がないことを話の種にして、笑ってくるハルージャとどっちがましだろうかと考えてしまう。
「でも、あの子、孤児みたいなものでしょう? どこにそんなお金があるのよ」
「確かどこかの貴族の子息と婚約しているって聞いたわ。きっと色目を使って、お小遣いでも貰っているんじゃない?」
その発言に対しては、つい苛立ちと怒りのようなものが心の奥から沸き上がって来る。
自分は好きでブルゴレッド家と婚約しているわけではないし、はっきり言ってしていない。
そこだけは訂正しておいた方がいいだろうかと悩んでいると、反論してこないアイリスに対し、さらに調子に乗っていく二人の会話は止まることなく勢いを増していく。
それは成績や性格、容姿、身分、家族のことなど一体どこから煙が上がったのかと呆れる程の噂と悪口の連続だった。
言葉に種類があるように悪口にも多くの種類があるらしい。次から次へと、よく別の悪口が出て来るものだと肩を竦めるしかない。
アイリスは再び深い溜息を吐いて、窓の外を見る。
たとえ、普通の人生を送っていたとしても、このように悪口や嫌味を言われることはあるだろう。
境遇を人から理解してもらおうなんて思わないがむしろここまで来たら、どうしてそこまで自分を貶めたいのかが気になる。
いい加減、この手の嫌味には慣れたがそろそろ耳に入って来るのが面倒になった。
反論したら、反論したでまた何か言われるのは分かり切ったことだ。
それならいっそ、口を閉じろとでも言った方がいいだろうかと立ち上がった時だった。
「──随分な言いようだな。そこまで根拠のない噂を吹聴するようだったら、黙ってはいられないんだが」
教室全体に響いたのは聞きなれた声だ。アイリスは思わず声の主の方へと視線を向ける。教室の前方の扉から、冷めた物言いで中へと入って来たのはクロイドだった。
クロイドの姿を見た女生徒二人は小さな悲鳴を上げつつ、顔を赤らめている。もしや、好意でも持っているのか。
「こ……根拠のない噂だなんて……。皆、言っているものばかりですわ」
「そ、そうですわ。私達も聞いた程度しか知りませんし」
気まずいと思っていても、クロイドから話しかけられるとは思っていなかった二人は少しだけ身をよじりながら答える。
「他人から聞いた話をそのまま彼女の本当の話として勝手にすり替えているのは君達自身だろう。アイリスを貶めていることに変わりはない」
立ち上がったまま呆然としているアイリスの隣へとクロイドは立つ。
「それ以上、彼女の悪口を言うならば、次の言葉からは俺への悪口として受け取っておこう」
「なっ……」
クロイドの冷めきった言葉に、女生徒二人が絶句しては表情をさっと青ざめさせる。
「な、何故、そこまで……。別にソルモンドさんには関係ないですわ……」
クロイドの眼光から視線を逸らしつつ、一人の女生徒が喘ぐように言った。
「いや、ある」
そこでクロイドが突然、左腕でアイリスの肩を抱き寄せてきたのだ。
「っ!?」
もはや密着と言っていいほど、その距離に間隔などない。今度はアイリスの方が絶句する番になった。
どういうことかと問うために、ちらりと視線を向けるとクロイドは、ここは任せろと視線で返してくる。
「……彼女は俺の婚約者だ」
「えっ……」
まさかの発言にアイリス自身も声を上げそうになったが、何とか抑えることが出来たのは奇跡といってもいいくらいだ。
目の前の二人は声に出して、短い悲鳴を上げるが今度は顔がはっきりと歪んでいた。ちょっと、見ていて面白いほどの変容ぶりだ。
「これ以上、彼女についてのありもしない言葉を吐くなら……ただでは済まないぞ」
すっと目を細め、氷のように冷めたクロイドの視線が女生徒達に向けられる。殺気という程までではないが、近寄りがたい空気を出して威圧しているようだ。
女生徒達は一瞬怯んだように、一歩後ろへと下がる。まさか、普段は涼しげな表情をしているクロイドが、途端に表情を変えて蔑むような瞳を向けてくると思っていなかったのだろう。
「どうなんだ? この先、彼女に関することを口から漏らさず、彼女に近づかないと誓うなら、ここで逃してやってもいい」
ふと、肩に触れられている腕に力が込められる。クロイドを男性として意識するなと言われる方が無理な状況だが、アイリスは何とか表情を通常でいられるようにだけ努めた。
クロイドに睨まれている状態の女生徒達は恐ろしいものを見てしまったような表情へと変えて、大きく首を横に振りながら、少しずつ後ろへと下がっていく。
「言っておくが、これでも怒りを抑えている方なんだ。自分の婚約者が侮辱されれば、腹が立たないわけがない」
ごくりと目の前の二人が唾をのみ込んだのが見えた。
クロイドが本当に怒っている表情は何度か見たことがある。
それは大抵、自分の命に関することばかりだった。今はそれとは別の状況だが、これは怒っているというよりも、牽制に近いものだろう。
「あと──。あの日、彼女に泥水を掛けようとしたのは君達だろう?」
どうしてそれを知っているんだというように、二人が驚いたように目を見開く。やはり、先日の泥水を掛けて来た件は彼女達の仕業だったらしい。
しかし今更、怒る気にもなれないため、アイリスは無言でいることにした。
「同じ目に遭いたいと言うなら、今度は俺が相手をするが?」
一歩、前へと足を出すクロイドに対して、女生徒二人は完全に怯えた表情のままで何度も首を横に振り続け、そしてこちらに背を向けて逃げるように去っていった。
その逃げ足の速さに、先程まで威勢よく悪口を吐いていた女生徒と本当に同一人物なのか疑いそうになる。
「逃げたか……。言うだけ言って、尻尾を巻いて逃げるなんて大したことのない奴らだったかもな」
ふっと溜息を吐いてクロイドは呆れた顔で逃げた二人の方向を見ていた。
「──そりゃそうよ。自分に引け目があるから、アイリスを嫌味の的として当てているんだから」
「……ミレット」
前方の扉からミレットが教室へと入って来る。どうやら、今ここで話されていた内容を全て聞いていたらしい。
「でも、作戦は上手くいったみたいね! これは暫く効果あるんじゃない? 何たって、クロイドのあの表情! 子どもが泣き出しそうだったわ~」
すっきりしたのか、愉快そうにミレットは声を上げて笑っている。
「まぁ、今後また嫌がらせでもされたら、もう一度クロイドのあの表情で追っ払ってやりましょうよ。効果抜群の冷めた表情だったから」
「それは褒めているのか? ……アイリス?」
クロイドがやっと肩に置いていた手を離してくれる。
そこに残る熱がどうしようもなく熱い。
「この作戦……ミレットが考えたの?」
どこかぼんやりとしながら、訊ねるアイリスにミレットは頷き返す。
「あの子達、クロイドに気があるようだったからね。これなら、クロイドにも言い寄れないし、自尊心にも傷が付くでしょう? 自分達が貶めようと悪口言っている相手の婚約者が密かに想いを寄せている男なのよ? そんな男が怖い顔で自分のものに手を出すなって言うんだから、どうしようもないじゃない?」
恋愛小説の読み過ぎではないかと思える展開だが、ミレットは満足そうに何度も頷いている。
「で、でも……。クロイドに迷惑かかる、し……」
「迷惑?」
クロイドが顔を覗いてくる。視線を合わせられない。
「だって、その……作戦とは言え、私の……婚約者を名乗っていたじゃない。そのうち、この話が学園中に広まるかもしれないでしょう? ……嫌じゃないの?」
しどろもどろにアイリスが言葉を続けると、クロイドはどこか小さく笑った気配がした。
「別に嫌だとは思ってはいないが」
「えっ?」
返って来た答えにアイリスは思わず顔を上げる。そこにあったのは先程までの冷めた表情ではなく、いつも自分に向けて笑みを浮かべる時のクロイドの穏やかな表情だった。
「確かにミレットの作戦に乗って、婚約者を名乗ったが嫌とか、不快だとかそんなことは思っていない。むしろ、嬉しいことだと思うが」
「……」
一瞬、何を言われたのか理解出来なかったアイリスは石のように固まる。
「だって、アイリスの婚約者なんだろう? 役じゃなくても、俺は嬉しいと思うよ」
ごく真面目に彼は何でもなさそうに、そう言い切ったのだ。
「へっ……? あっ……え?」
まさか、そのような言葉を向けられるとは微塵も思っていなかったアイリスは、次第にうろたえ始めて、頬を紅潮させていく。
「おい、大丈夫か? 顔が……」
クロイドから表情の変化を指摘される前にアイリスは自らの手で顔を覆う。
「ひゃ……! っ、ちょ……ちょっと、待って! ……まだ、見ないで!」
「どうしたんだ? 具合でも……」
「大丈夫、だからっ……!」
顔が赤いまま元に戻らず、何故か身体が妙に熱い。胸の奥から次々と熱いものが零れだしてくるような感覚だ。
しかも、心臓の脈は加速していき、普段と同じような状態ではないのだと、身体全体がそれを告げていた。
そして、その状態のアイリスを心配するようにクロイドが顔を覗き込む、ということが繰り返される中、ミレットは一人冷静でいた。
「……おーい、クロイド。この天然たらしー。その辺にしておいてあげなさい……」
深く溜息を吐きながら、ミレットは少し困ったような表情でクロイドを止める。
「クロイドもクロイドだけど、アイリスもここにきて、自覚するって……。やっぱり、二人とも似ているというか、気長というか」
どこか呆れ気味にミレットは額に手を当てている。
クロイドはアイリスの心配をしているようだが、当の本人はそれどころではなかった。
目の前にいる彼が自分の婚約者が役じゃなくても嬉しいと言ったのだ。その言葉が一体どういう意味なのか、さすがの自分でも分かる。
そして、そう言われて、自分も嬉しいと思ってしまったのだ。
嬉しいと思う気持ちがどこから来る感情なのかはとっくに理解しているのに、認めたくはない。
いや、嫌というわけではなく、ただ恥ずかしかったのだ。
婚約者とは言わば未来の結婚相手というわけで。
まだ、世間には家同士の結婚という風潮が残っていることもあるが、この国の多くの人が恋愛結婚をしている。
それは自分が好きだと思う人と結婚しているというこで、それはつまり──。
……私は……。
それ以上は考えられなくなり、顔だけでもなく、耳まで熱がこもっていく気がした。
「あー、もう。これから先が思いやられるわ……」
溜息交じりにミレットが呟くもアイリスは反応できず、そのまま顔を手で覆うことしか出来なかった。
裏の教団編 完




