最後の茶会
アイリスは自分が眠っていた──いや、悪魔に魂を抜かれていた間に何が起きたのか、クロイドとブレアから道すがら聞いた。
あの時、悪魔「混沌を望む者」が放った魔法によって教団の団員達は魂を抜かれたこと。
それだけでなく、イグノラント王国の住民と王家の命さえも人質に取られた状態で、悪魔が交渉してきたこと。
長い一夜の末に悪魔の思惑を跳ね返し、民間に一切犠牲を出さずに済んだこと。
だが、その際にハオスと交戦したイリシオス総帥が──深く負傷したこと。
そして、彼女によってアイリスを含めた団員達にかけられた古代魔法が無事に解かれたことを聞いた。
「……」
その話を聞いている時、アイリスは言葉が詰まって何も言えなくなっていた。言い表しようのない感情が溢れ、身体が震えてしまう。
吐きそうになる口元を右手で押さえ、左手で胸元を掻きむしるように握りしめる。
「先生は……イリシオス総帥は、もう長くはない」
前を歩くブレアがぼそり、と呟く。その背中は悲壮で満ちていた。
「そん、な……」
アイリスの口からぽろりと言葉が漏れる。ふらつきそうになった身体をそっと支えてくれたのは、隣を歩いていたクロイドだ。
顔を上げれば、彼も自分と同じような表情を浮かべていた。悔しさと虚しさと、自身の無力さに対する怒りや苦しさ。そんな感情が全て混ざった表情を彼はしていた。
「……以前、マーレが治療室に運ばれたことがあっただろう」
歩きながらもブレアは言葉を続ける。マーレことマーレ・トレランシアとは、クロイドを一時的に保護してくれた彼の師でもあり、親でもあり、恩人だ。
だからなのか、マーレの名前が出た時、クロイドの肩がわずかに揺れた。
「イリシオス総帥はマーレが受けていた治療と同じく、あらゆる魔法でぎりぎり命が繋がれている状態らしい」
話を聞く限り、負傷したイリシオスには痛みや出血を抑え、腐敗を防ぐ魔法がかけ続けられている状態とのことだ。
それはつまり、イリシオスに残された時間が短いことを示していた。
「長く持たせようとしても、イリシオス総帥自身がそれを望まない」
「っ……!」
「……恐らくあの人は全部、持っていくつもりなんだろうな」
低い声でブレアは答える。いつの間にか、緊急用の治療室の前へと到着していた。
ブレアが扉を開けるよりも先に、誰かによって開かれる。
治療室から出てきたのは他の課の課長達だった。彼らもイリシオスに会いに来たのだろう。誰もが暗い表情をしており、重そうな足取りでアイリス達の前を素通りしていった。
そのうちの一人が立ち止まり、こちらに視線を向けてくる。
「──……ああ、ブレアか」
「っ、くそ爺……」
そこに立っていたのはブレアの実の祖父であるベルド・スティアートだった。
年中、国内を行き来しては魔物を狩っている彼が教団に戻ってくるのは稀ゆえに、アイリスも顔を見たことはあっても言葉を交わしたことはほとんどなかった。
豪気、という言葉が似合う性格だと聞いていたが目の前にいる彼の表情には薄っすらと陰が見える。
「……言いたいことは、ちゃんと言っておけよ」
「っ……」
ベルドはブレアの肩を軽く叩く。彼はアイリスとクロイドを見て、目を細めていたがすぐに引きはがすように顔を逸らし、その場から去っていった。
彼の後ろ姿を見送るブレアは、何かに耐えるように両手の拳を強く握りしめていた。
「……ブレアさん」
躊躇いがちにクロイドが声をかける。ベルドの背中を見つめていたブレアはすぐに治療室の扉の方へと身体の向きを変えた。
「……行こう」
そう呟いたブレアの顔は見えなかった。
扉を開けた治療室は外の光が入らないようにカーテンで遮られているのか、少しだけ薄暗く感じた。
扉を閉めれば、薬品と血の匂いがその場を満たすように漂っていることに気付く。
入口から奥が見えないように、ベッドとの境目は白いカーテンで遮られている。
広く静かな治療室では、穏やかな声が響いていた。
「──では、塔の結界の修復が終わり次第、更に強化する予定ですのでどうかご安心を。……あなたが守ってきたものを後世、守り続けると誓いましょう」
「……ん。すまんな、ハロルド。迷惑をかけるのぅ……」
「いいえ。なんの、なんの。……このくらいしか、お返しできませんからな」
カーテン越しに聞こえてきたのは、黒杖司のハロルドとイリシオスの声だった。
「……さて、アレクシアよ。次の総帥はお主に任せても良いかの」
同じく黒杖司のアレクシアもそこにいるのか、何かを飲み込むような音が聞こえた。
「っ……。分かりました。謹んで、お受けいたします。……あなたから教えてもらったこと、遺してもらったもの、必ず繋げていきます」
「うむ。……宜しく頼むぞ」
まるで、最期の挨拶のような会話が交わされている。
イリシオスがはっきりとした口調で言葉を交わしているからこそ、アイリスはまだ現実を簡単に受け止めることなど出来ずにいた。
アイリス達が入ってきたことに最初に気付いたのは、そこに同席していた黒筆司のウェルクエントだった。
「……ブレア課長、お二人を連れてきて下さったんですね」
ウェルクエントはいつものように考えが読めない表情ではなく、どこか哀愁が漂う視線でこちらを見つめてくる。
「……どうぞ。僕達はもう、挨拶は済ませたので」
「……」
ウェルクエントに続き、アレクシアとハロルドも、カーテンの向こう側から出てくる。
二人は唇を真っ直ぐ結び、痛みに耐えるような面持ちをしていた。そして、無言のままブレアの肩を叩き、治療室から出ていく。
けれど、ブレアは動かない。
いや、動けないと言った方がいいのかもしれない。
同じようにアイリス達も彼女の背中に手を添えることさえ、出来なかった。
「……」
進んでしまえば、受け入れたくはない現実と向き合うことになってしまう。
ならば、行かなければいいのでは。そんな考えを抱いてしまう気持ちはよく分かる。
時間はそれほど経っていないというのに、長い時間が流れた気がした。
静寂に満ちた治療室にぽつり、と声が落とされる。
「……ブレア。来なさい」
「っ……」
叱られた子どものように、びくり、とブレアの肩が震える。声の主は間違いなくイリシオスだ。
酷く負傷しているとは思えないくらいに凛とした声で彼女はブレアを呼んだ。
背中しか見えないが、ブレアは何度か深く呼吸をしてから顔を上げる。そして、一歩ずつ歩みを進めた。
まるで、受け入れる覚悟をしたようにその背中は真っ直ぐだった。
アイリスとクロイドは顔を見合わせ、それからブレアに続くように足を踏み出す。
「……失礼します」
ゆっくりと進み、カーテンの向こう側へと入った。
薬品と血の匂いが更に濃くなる一室。
そこにはベッドの上に横たわっているイリシオスと、彼女の番犬のように傍に仕える侍女姿の女性がいた。
血の匂いはするのに、イリシオスの顔や髪は手入れがされたように綺麗だった。頬には治療の痕があるものの、丁寧に血が拭かれたのだと分かる。
だが、彼女の身体は包帯だらけで、その身を囲うように薄緑の魔法陣が浮かんでいる。それは先日、マーレ・トレランシアにかけられていた魔法と同じものだった。
アイリスは思わず、息をのんでしまう。
ぎりぎりで生き留められているイリシオスの姿は、以前の彼女からは想像できない程に痛々しいものだった。
ブレアだけでなく、アイリスとクロイドもその場に来たことを知ると、イリシオスは嬉しそうに目を細めた。
「すまんのぅ、こんな姿で。……お主たちを招くならば、以前のように茶の用意でも出来れば良かったんじゃが」
重い空気を薄めるように、彼女はわざとらしく明るい声でそう言った。
イリシオスの姿を見つめながらその声を聞くたびに、鉄の牙を胸に刻み立てられているような感覚が襲ってくる。
「ほれ、もっと近くに来い。顔をよぉく、見せてくれ」
「……」
アイリス達は石になってしまいそうな足で、イリシオスへと近付く。
「来てくれたこと、感謝する。意識があるうちに、お主たちと話をしたかったんじゃ。……茶はないが、最後の茶会に参加してはくれぬか」
そこには慈母のように我が子を見つめる、優しい瞳があった。
アイリスは唇を噛み、それから目の奥が熱くなるのを無視したまま、頷き返した。




