ローレンスの番人
気付いた時、アイリスは白い空間にいた。着ている服は白のワンピースのようなもので、何故か裸足だった。いつも頭を飾っている赤いリボンもない。
一歩、前へと進んでみる。足元は白いだけで、これは何かだと確定できる感覚はなかった。
「……前にもこんなことがあったような……」
不思議に思いながらもアイリスはこれが夢の中だと分かっていた。夢だと分かっているけれど、目が覚めたら覚えていない、そんな夢だ。
ふと、耳に懐かしい声が入ってきた気がして、振り返った。
まるで一線を引くように淡い色の花が咲いた花畑の道の向こう側。この場からかなり遠くの場所に四つの影が見えた。
「っ……!」
その光景を見てしまえば、胸の奥から込み上げてくるものがあった。
「お母さんっ、お父さんっ……!」
両親だけではない。幼かった弟妹もそこにはいた。四人で楽しそうにピクニックをしている姿を見て、アイリスは泣きそうになった。
あり得なかった未来が目の前に広がっている。
……私も、そこに行きたい。
家族が楽しそうに──幸せそうに笑い合っている。自分もそこに加わりたい。
穏やかだった日々をもう一度、共に過ごしたい。
アイリスは境界線のように広がっている花畑に向かって足を伸ばした──その時だった。
「──駄目だよ、アイリス。たとえ夢の中だとしても、その花畑の向こう側に行ったら、戻れなくなってしまうかもしれないよ」
低く穏やかな声が空間に響き、驚いたアイリスは立ち止まり、振り返る。
そこには古びたローブを着ている青年がいた。
その青年の頭の部分には白い靄がかかっていて、顔が分からないようになっている。
それでもアイリスは何故か、目の前の人影が「青年」だと断定できた。自分でもその理由は分からないが、ただ、そうだと無意識に認識していた。
彼の右手には長く大きな杖が握られている。まるでおとぎ話に登場する魔法使いのようだ。
「あなた、は……」
どうして、自分の名前を知っているのだろうか。疑問に思っている間に、花畑の先にあった家族の「光景」は薄れていった。
……あれは私が思い描いた、自分勝手な幻想だったのね……。
分かっていたはずだ、本当は家族が生きていないことくらい。
唇を小さく噛みながら、何もなくなった白い空間から視線を逸らす。
「……とりあえず、こっちへおいで。まだ、目覚めの時間ではないからね。……今、椅子を用意するからそこに座るといい」
青年は杖で足元を叩く。すると、その場には白い長椅子が現れた。
一体、どういう原理なのかは分からないが夢の中だから、何でもあり得るのだろうか。
「さぁ、どうぞ。……せっかくだから、少し話をしよう。そのくらいの時間ならばあるはずだからね」
圧は無いし、強制力もないはずだが、アイリスは青年の言葉に素直に従ってしまう。
長椅子の端と端に腰かけると、隣に座った青年はふぅっと息を吐いた。
「……訊ねても、いいかしら」
「何だい?」
「あなたは……何者?」
アイリスが直球で訊ねれば、青年は小さく苦笑した。
顔が靄で隠れてよく見えないというのに、何故か彼の表情や感情はアイリスに直接伝わってくるので不思議だ。
「うーん、そうだなぁ……。僕は番人みたいなものかな」
「番人……」
「そう、ここはね、夢と現実とあちらの世界の境目。とても曖昧で、けれど確かな場所。アイリスの中にある『夢境』と呼ばれる場所だよ」
夢境という言葉を聞いたのは初めてだった。
「君はここが夢の中だって分かっているね」
「え、ええ……。……でも、目が覚めたら、忘れてしまう夢なのでしょう」
アイリスはふと、以前もこのような白い空間に来たことを思い出した。けれど、目覚めた後にはすっかり忘れていたのだ。
あの時、自分と似た誰かと会ったということだけは薄っすらとだが、覚えている。
「これまでは、ね。……まぁ、まだ覚醒していないのだから、仕方がないことだけれど」
「……?」
青年が発した言葉の意味が分からず、アイリスは小さく首を傾げる。彼は幼子に向けるような柔らかな苦笑を返してきた。
「言っておくけれど、僕がここにいるのは僕の力によるものだけじゃなく、半分はアイリス自身の力によるものでもあるからね」
「私自身の力? ……魔力を持っていないのに?」
「魔力の有無は関係ないんだ。この力──『夢魂結び』の力は、ローレンス家の血筋の者だけにしか与えられないからね」
「夢魂結び……。確か、夢の中で過去と現在、未来に属する他者の魂と己の魂を交差させることが出来るって……」
少し前にイリシオスからこの「夢魂結び」について聞いたことを思い出す。
「私がこの白い空間にいることは、夢魂結びの力によるものなの?」
「……夢の中ならば、会いたい人に会えるだろう? 君の──この夢魂結びの力はそういうものだよ」
会いたい人、と呟いた時、彼の表情は分からないのにどこか寂しそうに──そして、少しだけ悲しげに呟いた。
「……さっき、ローレンス家の血筋の者にしかこの力は与えられないと言っていたけれど、私以外にも使える人はいるの?」
心に浮かんだのは同じローレンスの姓を持つ者と、ローレンス家の血筋を受け継いでいるものの本家筋の人間ではない者達だ。
「いいや。誰でも、というわけではないよ。……力は正しく使われなければならない。だから、この夢魂結びの力は正しく使える心を持っている者にしか、継承されないんだ。……僕がそうするように決めたからね」
遥か遠くを見ているような声色で、彼は言葉を続けた。
「君はきっとこれから先、『岐路』となる夢を何度も見ることになるだろう。そして、そのたびに選択を迫られる。……けれど、僕には分かるよ。たとえ苦しくて、辛い決断を迫られようとも君ならば、超えられると」
「……私はそんなに期待されるような人間じゃないわ」
苦虫を噛み潰したような顔でアイリスは呟く。すると、青年は柔らかな声で諭すように言葉を発した。
「君は僕が見てきたローレンス家の人間の中で、誰よりも真っ直ぐで、そして不屈の心を持っている。どんなに理不尽で心苦しい状況に陥ろうとも、最後まで諦めることがない──人間らしい、人間だ。そういうところを僕は評価しているんだよ、アイリス」
「人間らしい、人間……」
「そうだ。だからこそ、情に厚く、他者の気持ちに寄り添える心を持っている。……それって実は素晴らしいことなんだよ。……僕には分からなかったからね、他者の気持ちなんて」
ほんの一瞬だけ、青年は自嘲した。
「けれど、人を想う心ってものは単純なようでとても複雑で、そして何よりも温かく眩しいものだと気付けたからね」
そう言って、青年はアイリスの胸元の方へと視線を向けてくる。
彼の視線の先にはいつの間にか、クロイドから貰った黒い石の首飾りが下がっていた。
「どうして、首飾りがここに……」
さっきまで、何もなかったはずだ。アイリスはそっと首飾りへと手を伸ばす。
魔力も何も宿っていないただの石であるはずなのに、クロイドと同じ瞳の色を持つ石からは何故か温かさを感じた。
「ふふっ、愛されているね、アイリス。その石はクロイドから貰ったんだろう? ……とても優しい願いが込められている石だ」
クロイドが自分へと願ってくれたものは誰にも話していないはずなのに、青年は何故かその内容を知っているらしい。
「誰かを愛し、誰かに愛されるということは、何気ないようで難しいね。僕も初めて愛されていると実感した時、やっと生きる意味を見つけることが出来たと思えたよ。力を持ち過ぎていた僕を愛してくれるような人は、それまでいなかったからね……」
青年の声色はとても優しく、そして懐かしいものを思い出しているようにも聞こえた。
「……ああ、君を呼んでいるよ、アイリス」
「私を……」
アイリスは耳を澄ませてみたが、真っ白なこの世界には自分達の声以外、響かない。
「悲痛な声で、君の名前を呼んでいるのが聞こえる。……そろそろ、戻らないといけないね」
青年はそう言って、立ち上がった。
つられるようにアイリスも立ち上がる。座っていた長椅子はまるで幻だったかのように消え去った。
「アイリス。君に頼み事をしてもいいかな」
「頼み事?」
「僕はここから動くことは出来ない。この場所に時間という概念は存在していないけれど、それでも僕は過去の人間だ。直接的に関わることは出来ない。──見守ることしか、出来ない人間と成った」
どういう意味だろうか、とアイリスは首を傾げる。
「どうか、ブリティオンのローレンス家を止めて欲しい」
「……っ!」
「彼らはあまりにも『ローレンス』の名を汚し過ぎた。強大な力を私欲のために使い続け、そのうえ他者の命を弄び過ぎた。……それはもう、『人間』ではない。力を持たせてはいけない存在に成り果ててしまった」
「それ、は……」
「ブリティオンのローレンス家にも、君のように清廉で勇敢な心を持った者がいれば良かったのだけれど、当主の凶行を誰も止めることはない。……だから、同じ『ローレンス』の名を持つ君にしか頼めないことなんだ、アイリス。罪を犯したローレンス家の人間は、同じ名を持つ人間が裁かなければならない……」
顔は見えないのに、彼が悲痛な表情を浮かべているのが感じ取れた。
「頼む、アイリス。どうか、彼らを救って欲しい──いや、終わらせて欲しい」
「そんな……。そんなこと、出来ないわ……。ただでさえ、『魔力無し』の私には……」
ふるふると首を横に振るアイリスの肩を青年はぽんっと軽く叩いた。
「アイリス。君が『魔力無し』として生まれたのには、きっと確かな意味がある。それは君にしか出来ないことがあるという意味だ」
「私にしか、出来ないこと……」
「そうだよ。……本当は後始末を君に押し付けるようなこと、したくはないんだけれどね。でも、これ以上の干渉は僕自身に認めていないんだ。僕はすでに死んだ人間だから」
「……」
「だから、こうして君を介することでしか関われないんだ」
どうかな、と青年は訊ねてくる。彼の言葉の端々から必死さを感じ取ったアイリスは少しだけ思案した。
「その頼み事は私にしか出来なくて、それを行うことで──これ以上、傷付かなくて済む人がいるということ?」
「……まぁ、そうなるかな。このままブリティオンのローレンス家を止めずにいれば……君の大事な人達にも影響が及ぶだろうね」
彼が苦しげな表情を浮かべたのは、声色だけで分かった。それだけで、本当は彼もアイリスにこんな頼み事をしたくはないと思っていると知った。
……でも、私以外に適任者がいない……。
アイリスはブリティオンのローレンス家の当主、エレディテル・ローレンスに会ったことはない。
ただ、これまでの件は全て彼が糸を引いていることだけは知っている。そこにどんな望みがあるのかも分からないのだ。
……けれど、このまま放置すれば、エレディテル・ローレンスによって、さらなる犠牲が出てしまうかもしれない……。
その犠牲の中にアイリスの大事な人達が含まれるならば、見過ごせなかった。
一つ、深い息を吐いてからアイリスは青年に答える。
「分かったわ。その頼み事、引き受ける」
「……君を巻き込んでごめんね」
申し訳なさそうに告げる青年に対し、アイリスは首を横に振った。決めた以上は、謝罪は受け付けないと言わんばかりに。
「でも、止めて欲しいと言っていたけれど、具体的にはどうすればいいの?」
エレディテル・ローレンスは強大な力を持った魔法使いだと聞いている。そんな相手に剣一本で敵うとは思っていない。
すると青年は一歩、アイリスへと近付き、杖の先を胸元に下げられた黒い石へと向けてきた。
「この魔法を君に託すよ。……きっと、その時がくれば、使いどころがおのずと分かるはずだ」
杖先から淡い光が生まれ、それは黒い石へと吸い込まれるように消えていく。
それを見届けてから、青年はふぅっと深く息を吐いた。
「……僕に出来るのは、これまでだ」
青年は一歩、後ろへと下がる。
そこに境界線を引くように。
「それじゃあ、君を見送るよ。目が覚めるのをずっと待っている人がいるからね。これ以上、アイリスをここに引き留めるのは、彼にとってはあまりにも酷だ」
青年は杖で足元をとんっと軽く叩いた。
「出口はあっちだよ」
彼が示した方向には、あまりにも不自然な白い扉があった。けれど、アイリスにはその扉がこの夢から覚めるための出口だと分かる。
もしかすると、明確に出口だと分かるように、彼が作ってくれたものなのだろうか。
「さぁ、戻るといい。君を待つ人のもとへ」
アイリスは扉の方へと足を進め、そして立ち止まってから小さく振り返る。
「あなたは、どうするの?」
「僕? 僕はここにいるよ。……自分で決めたことだからね」
「ここに……」
「そうだよ。……これは『ローレンス』の名を持つ者としての責務でもあり、そして咎でもあるんだ」
責務と咎、という言葉をアイリスは口の中で繰り返す。
そして、はっとしたようにアイリスは青年の顔を見た。
「あなたも、『ローレンス』の名を持っているの? それなら、あなたは一体……」
何者なのか、という問いに対し、青年は笑った。
それまで、靄がかかったように見えなかった顔がはっきりと現れる。まるで、魔法が解けたように。
金色の髪、空色の澄んだ瞳。
目の前にある顔は、鏡に映った己を見ているようにアイリスに似ていた。
青年は柔らかく笑う。
愛おしい我が子を見つめるように、優しげな表情で。
「僕はローレンス。そして、『ローレンス』の名を持つ者達の番人だ」




