望む者の最期
目の前に立っている、底が見えない笑みを浮かべている少女──いや、悪魔はまるで獲物を追い詰めたと言わんばかりに満足げだった。
ふと、気付いた。
塔にいた際、リベルはあえてハオスを追いかけることはせず、見逃したのだと。
「……死人の顔で笑うんじゃねぇよ、リベル」
「ははっ、それは無理な話だね。……だって、こんなにも愉快な気分なんだ。笑わないわけがないだろう?」
ラザリー・アゲイルの姿で、妖艶に笑っていたリベルは目をすっと細めた。
「なぁ、ハオス。お前は『悪魔』がこの世で最も完璧な存在だとでも思っているのかい?」
「……は?」
荒い息を整えつつ、ハオスはリベルを睨み返す。
「悪魔だって、ちゃんと死ぬのさ。正確には魂の──いや、存在が消滅するという意味だけれど」
リベルは唇で半月を描く。
「遠い国では人間が死ぬとその魂は循環し、再び生まれ変わるという考えがあるらしいけれど、知っているかな? まぁ、『生まれ変わり』ならば、それはここらの国でもごく稀にあり得ることだ」
「……何が言いたい」
「悪魔の命に、寿命なんてものは存在していない。だって、私達は精神体だ。けれどね、その魂が一度でも消滅すれば、同じものとして生まれ変わることは二度とないのさ。つまり、存在がこの世から抹消されるってことだね。……それはどれ程、強い力を持っている悪魔でさえ当てはまることだ」
からからと愉快げにリベルは笑う。この時、ハオスは初めて、背筋にぞくりと冷たいものが流れた気がした。
だが、他者の命を掌の上で弄ぶリベルの様子を見て、同時に納得も出来た。
変人だ、愚か者だと称されていても、リベルもまた悪魔らしい悪魔なのだと。
「ハオス。さっき、お前はセドに自身の魂を消し去れるのか、と聞いたね。……無論、出来るとも」
「なっ……」
「私達は基本的に精神体で、本当ならば実体はない。その場合、人間の攻撃を通すことはないが、今のお前は違う。人間と契約し、そして心臓に魂の核を固定され、そういう『存在』として確立されている状態だ。つまり、実体を得ているってことさ」
リベルはとんとん、と彼女の胸を拳で軽く叩く。そして、憐れむような視線を向けてきた。
「お前はまだ、自分の今の身体がどうなっているのか、自覚できていないみたいだな。……すでにお前の魂の核に『魔縫いの聖刃』による呪いは刻まれた。それがじわじわと侵食していくのを止めることはできない」
再確認するようにリベルは告げる。
「何せ満月の夜に一晩中、聖水をかけられながら、高名で徳の高い聖職者の聖なる言葉によって清められ、鍛えられた短剣だ。私を殺そうとした時とは大違いのものだぞ。もはや別物の域だ」
ハオスは薄れそうになる記憶の中から、リベルを殺そうとした時のことを思い出す。「魔縫いの聖刃」は悪魔を殺せる道具だから、と特別な手入れをすることはなかった。
恐らく、ハオスが気付かなかっただけで、あの短剣の質と性能は落ちていたのかもしれない。それゆえにリベルに突き立てても彼女は辛うじて生きていられたのだろう。
自分も焦らずにしっかりと、「魔縫いの聖刃」を手入れしていれば──。そんなことを考えても今さらだった。
「今のお前には抵抗する力さえ残っていない。魂の核にひびが入り、消滅しかけているところを外部から攻撃されたら──実体を得ているお前はどうなると思う?」
リベルはスカートと揺らしながらくるりと回り、そして昏い笑みを浮かべた。
「自身には及ばないと侮っているたかが魔法使いでもね、お前を殺せるんだよ。混沌を望む者」
「っ……。このっ……!」
ハオスは唯一残った手を素早くかざし、氷の槍をリベル──ではなく、セドに向けて放った。
だが、その刹那。
リベルが指を鳴らし、氷の槍を反転させ、ハオスの腹部へと突き刺した。
「ぐあぁっ……!! ……くっ、ぁ……っ……」
新しい痛みが身体を襲う。それでも、氷の槍を身体から抜き取れず、ハオスはその場を動くことさえ出来なかった。
「全く……。飼い主を先に殺したら、飼い犬の手綱が切れて暴走することくらい、簡単に想像できるだろうに」
自身のことを飼い犬と称しつつも、リベルは余裕の表情だった。
すると、リベルの後ろにいたセドが隣へと並び、冷めた視線でハオスを見下ろした。
「リベル」
「おっと、すまない、セド。けれど、彼には殺されそうになった恨みがあるからね。……でも、結構満足出来たし、そろそろ君と交代しよう」
恭しい態度で言葉を返したリベルは一歩、後ろへと下がった。
リベルよりも昏いセドの瞳は揺れることなく、ハオスをじっと見つめている。セドはゆっくりとした動作で、杖を取り出した。
長年、共にしたと思われる杖は使い古されていてもなお、丁寧に手入れされていると分かる一級品だった。
「く、るな……ぁっ!」
「……」
死が、やってくる。これまで、己が他者へと与えてきた「死」が。
嗤いながら、嘲りながら、他者が命乞いをする様を見てきたあの光景を今、自分が再現していた。
セドが杖を構える。洗練された動きは、魔法を発動させるために何度も練習したものなのだろう。
「は、ぁっ……ぅっ、はぁっ……ぐ……」
自分は今、どんな顔をしているのだろうか。
けれど、ハオスは覚えていない。嬉々として楽しみながら奪ってきた命が最期にどんな表情をしていたかを。
「や、めろ……っ……!」
「そんな台詞、一言でどうしてセドがやめると思うんだ? ……復讐はさ、したいからするのさ。その方が自身の心に折り合いがつけられるからね」
リベルはセドの後ろから覗き込むようにしながら、軽やかにそう言った。
セドはぶつぶつと呪文を呟く。杖の先からは、ばちばちと火花が散り始めていた。
どこかで見たことがある、ありふれた炎魔法にしか見えない。けれど、ハオスにとっては自身を燃やすために生まれた業火にしか見えなかった。
嫌だ、嫌だ、嫌だ。
助けを乞うような、愚かな存在に成り下がりたくはない。
けれど、死にたくもない。
恥じも矜持も何もかもを捨て、ハオスはセドへと手を伸ばす。
「セド・ウィリアムズっ……! お前のっ、願いを叶えてやる……!」
ハオスの言葉に、セドは杖を動かしていた手をぴたりと止めた。
「リベルにラザリー・アゲイルの姿を取らせているくらいだ! 本当は、あの女を蘇らせたいんだろう! 俺なら、お前にそれが出来る! だからっ……──」
「誰が喋っていいと許可した?」
ぴしり、ぴしりと空気が反発し合うような音が立て始める。
「お前の死を望む私が何故、そんな嘘を聞き入れると思ったんだ」
わざとセドはハオスの言葉を切り、低い声で応えた。セドが持つ杖の周囲は赤黒い色を纏う炎の蛇がとぐろを巻いていた。
「私の願いはお前には……お前だけには、絶対に叶えられない」
静かに、そして重みがある声色が心臓へと響く。
肌が焼け落ちそうな熱が、目の前にあった。汗を掻く器官なんて、とっくに死んでいると思っていたが、じわりと自分の身体に滲むものは何だろうか。
「永久に生まれ落ちることなく、虚となる闇へ沈め──混沌を望む者」
零れ落ちるは拒絶の言葉。
たとえ、自身の望みを叶えるために「悪魔」の手を取ろうとも、その相手はハオスだけは絶対にあり得ないとセドは示した。
「──……身も魂も名前も何もかも、全てを燃やし尽くせ。灰燼迎えし終焉の業火」
声が、出なかった。いつもならば、このくらいの魔法、片手で跳ね返せるというのに。
抗うことも出来ず、ハオスの両目には赤黒く巨大な炎の蛇が焼き付いていくだけだった。
「──ぁ」
それは瞬きする暇もない一瞬だった。
音も、影も、姿も、何もかもを無へと還す炎がハオスを飲み込んだ。
ハオスを喰った炎の蛇は、すでに傷付いていた身を灰へと変えていく。
丸ごと飲み込まれるように喰われたというのに、心臓が自ら発火し、燃え続けているような感覚がハオスを襲った。
「っ、あぁああぁあぁぁっっ……!!」
熱い、苦しい、痛い、……──死ぬ。
辛うじて保たれていた魂の核には更に大きなひびが入り、まるで骨が軋むような音を立てる。
まともに思考することさえもままならず、自身を襲うものにもがき苦しむことしか出来ない。
自分はこの業火に包まれたまま、蔑むような冷たい目に見送られるというのか。
たった一本、残っていたハオスの手がセドへと伸びる。
それは怨めしさによるものか、それとも──救いを求めるものだったのか。
──ぱきり。
まるで、貝殻を踏んだ時のように。
それは魂の核が完全に砕けた音だった。
ああ、これが、これこそが死──。
熱いのに全てが冷たく。
真っ赤なのに、黒く染まっていくのだ、永遠に。
ハオスの目に最期に映ったのは、伸ばしていた自身の腕が完全に灰へと化し、砂のようにさらさらと零れていく姿だった。