昏い欲望
「──がぁっ、はっ……。はっ……。おぶぇっ……げほっ……」
口から、大量の血が出た。これが新鮮な血液ではないことは自分がよく知っている。
両足で立っていることさえも辛くなった混沌を望む者は、木の根元にずるずると座り込んだ。
……くそっ……。無理に転移したせいで、身体の修復が間に合わねぇ……!
イリシオスが仕掛けた魔法の範囲の外に出れば、いつも通り魔法が使えると思ったが、損傷した身では上手くいかなかった。
……仕方ねぇ……。どうせ、ここはローレンス家の直轄領だ。そのうち、セリフィアが迎えに来てくれるだろ……。
ふぅっと、深い息を吐きつつ、虚ろになりかける瞳で周囲を見渡す。
自分が転移した場所は、ブリティオン王国のローレンス家が所有する敷地にある森の中だ。
予定ではローレンス家の屋敷に直接、転移するつもりだったが座標が大きくずれたようだ。恐らく、屋敷から数キロ程の距離があるだろう。
たとえ短い距離だとしても、傷付いた状態で無理に動けば、ぎりぎりに保てている魂の核が完全に壊れてしまう可能性があった。
ここは大人しく救援を待つしかない。
「あー……。くそっ……」
心臓には大きな穴が開いており、魂の核となる部分は自分では修復できない。
しかも、よりにもよって、対悪魔用として聖なる魔法で鍛えられた短剣がこの身体に触れたのだ。
悪魔である己にとっては効果抜群の道具だ。何せ、銀の刃が身体に触れた箇所から焼きただれていくものなのだから。
激痛に顔を顰めながらも、「自由を歩む者」と「魔縫いの聖刃」のことを頭に浮かべた。
先程、ハオスの心臓を貫いたのはかつて、自分がリベルを殺そうとした際に用いたものだ。
何故、殺そうとしたのか──それは、彼女が持っている「権能」が欲しかったからだ。
悪魔十二席の十一席に身を置いている大悪魔だというのに、悪魔達の間ではリベルは変わり者で有名だった。
風のように世界を悠々と旅し、好きなものを食べ、好きな時に昼寝をする──まるで、牧歌的な生活を送っている人間の旅人のようだと思った。
悪魔は本来、精神体だ。力の強い上位の悪魔がいるように、力が弱い下位の悪魔も存在する。
特に下位の悪魔が世界に留まり、干渉するためには「依り代」──つまり、何かに寄生することが必要とされた。
依り代は人間や動物だったり、他には道具などの形あるものだ。一方で、花や草木といった自然から生まれたものは依り代には出来ない。
悪魔が人間に甘言を囁き、契約を持ち掛けるのは「依り代」と、人間の願いを叶える際に生じる契約時の「代償」を得るためだ。
少しずつ得ていくことで悪魔としての格が上がり、精神体である悪魔は人間の世界に留まれるようになるのだ。
そんな中で、リベルだけが違った。
人間という存在に特に興味を持たない彼女が悪魔十二席の第一席に座する大悪魔に望んだのは、「旅人」という権能だった。
彼女は「自由」だった。精神体でありながらも、魂を固定化することでそこに存在し続けることが出来た。
あらゆる場所に赴くことができ、存在することに制限なんて必要なかった。
ああ、ああ、羨ましい。
何故、彼女だけなのか。何故、自分は縛られなくてはならないのか。
欲しい、欲しい。
あの力が欲しい。
そうすれば、もっと自由にこの世界を引っ掻き回せるのに。人間が苦痛に顔を歪める光景が何度だって見られるのに。
愉しいこと、もっとたくさんしたいのに。
どうすれば、いいのだろうか。
どうすれば──。
そうか、ならば──奪えばいいのだ。
自由を歩む者を殺して、悪魔十二席の座について、権能を奪えばいい。
そうしたら、きっともっと、好きなことがたくさん出来る。
その考えに至ったハオスは、リベルを殺すための計画を練った。彼女はかなりの実力を持つ悪魔だ。
中途半端な準備では、彼女を屠ることは出来ないだろう。
まず、目を付けたのは聖なる魔法で鍛えられた対悪魔用の道具だ。
その道具を持っている人間に近付くために、ハオスは心が弱い人間に目を付け、「契約」することで依り代を得た。
ある程度、自由を得たハオスは人間に乗り移ったまま、「魔縫いの聖刃」を手に入れることに成功する。
精神体の状態だと短剣の柄に触るだけで苦痛を伴ったが、人間を依り代としているならば、柄を握ることが出来た。
そして、その後は油断して木陰の下で昼寝をしているリベルの魂の核へと魔縫いの聖刃をぐさりと突き立てた。
あの時の驚いたリベルの表情といったら、傑作だった。
上位の者を自分よりも下位へ落とす行為がこんなにも気持ちいいなんて知らなかった。
リベルを殺したことで、ハオスは彼女が座っていた悪魔十二席の席に座ることが出来た。
前よりも力が増え、愉しいことでたくさん遊べるようになった。
まぁ、少々派手にやり過ぎたせいでローレンス家の当主、エレディテル・ローレンスに目をつけられ、彼と契約を結ばされて今に至るのだが。
「……どうせ、あの当主様は俺のこと、道具としか思っていねぇだろうが……」
ハオスは一本になった腕に視線を向ける。そこにはべっとりとイリシオスの血がついていた。
エレディテルが求めるのはこのイリシオスの血だ。多少、損害はあったものの、彼から受けた命令は無事に完遂した。
あとはこの血を届ければ終わりだ。
「たまには褒めてもらわねぇとな」
くくっ、と低く笑いつつハオスは木陰から空を見上げる。数時間もすれば、夜明けだ。
とりあえず、イリシオスの血を渡した後は、魂の核を修復してもらい、新しい身体でも強請ろうか──そんなことを考えていた時だった。
ざわり、とその場の空気が騒いだ。
頬をすり抜けていく生温い風は自分がよく、知っているものだ。
瞬間、ハオスの目の前の地面が淡く光り始める。
「っ……! まさかっ……!?」
地面に浮かんだのは見慣れた魔法陣だ。それは間違いなく、自分が多用している転移魔法陣だった。
光と共に現れたのは一つの影。まるで夜の闇を纏っているように暗い表情した、セド・ウィリアムズがそこにはいた。
「お前っ……!」
この魔法陣は「人間」が通れるものではない。悪魔である自分や少々特殊なセリフィアは別だが、あのエレディテルでさえ、転移魔法陣を使おうとはしない。
何故なら、生身の身体だと転移による移動の際に、想像以上の負荷がかかるからだ。
たとえ、セド・ウィリアムズがリベルと契約している身であり、防御魔法をいくら身体にかけていたとしても、負荷には耐えられないはずだ。
それなのに、彼はハオスを追ってきた。ハオスへと向けられている昏い瞳には、執念による炎が映り、揺らいでいた。
ゆらり、ゆらりとふらつく足付きで、セドはハオスへと近付いてくる。彼は、自分を殺しにきたのだ。
その理由は分かっている。
「……はっ。今さら、俺を殺したところで、お前の愛しい姪は帰ってこねぇってのに。人間様は復讐ごとが大好きだな」
「……」
「そもそも、俺と取引すると決めたのは、ラザリー本人だぜ? 結局は自業自得みてぇなもんだろ」
「──黙れ」
静かな夜を制するように、セドは発した。
「お前がラザリーを語ることを私は、許しはしない」
耳に入れるだけでずっしりと身体に圧し掛かってくる声色だが、そこに魔力なんて宿っていないはずだ。
それなのにセドが発する言葉には重みがあった。
「私は、お前を許さない。許しはしない」
「へっ、それじゃあどうするっていうんだ? 頼みの綱の『魔縫いの聖刃』さえ持っていねぇくせに、たかが魔法使い風情がこの俺の魂を完全に消し去ることなんて出来やしないさ」
「──それはどうかな、ハオス」
どこか、からかうような声がその場に響く。
「やぁ、先程ぶりだね。死へ向かう最期の時間は十分に楽しめたかい? それとも懺悔でもしていたかな? ……ふふっ、悪魔が懺悔だなんておかしな話だけれどね」
セドの身体から分離するように現れたのは、ハオスを見下ろしながら、くすくすと楽しげに笑っている自由を歩む者だった。
「……まぁ、懺悔しても逃してあげたりしないけれど」
ラザリー・アゲイルの姿を模したまま、リベルは口元に弧を描いた。