恩師の手
これ以上は無理だ、という限界は突然きた。
「ぐっ……ぁ……」
クロイドは両膝をその場につき、えずいた。
襲ってくるのは尋常じゃない気怠さと吐き気。立つことが出来ないくらいに、身体のあらゆる節々が痛み、力が入らなかった。
それはクロイドだけに限った症状ではない。共に魔法を行使していた者達も、己の限界がきたのか、次々と倒れていく。
もう、誰もこの魔法──「断悪封じし聖なる透壁」を保つことは出来なかった。
……くそっ、力が抜けて……。
さらさらと、さらさらと。
まるで砂の城が崩れ去るように、目の前で築いていた結界が解かれていく。
悪魔を閉じ込めるために築き上げた結界は、完全に形を失くしてしまった。
「──……ク……ドっ!」
誰かが、自分の名前を呼んでいる。この声はさっき、助けに入ってくれたレイクとユアンの声だろうか。
徐々に五感が失われていくのが分かったが、力が入らない以上、どうしようもなかった。
結界を、張らなければ。
それなのに魔力はもうほとんど空に近い状態で、簡単な魔法一つ、使うこともできない。
しかし、転移してくる魔物の襲撃は止むことはない。
加勢に来てくれたレイク達も、倒れたままのクロイド達に被害が及ばないように防戦する一方だった。
だが、交戦する音が唐突に止んだ。
耳に入ってきたのはレイクとユアンが「誰か」を歓迎する明るい声。
もしかすると、別の団員が加勢にきてくれたのかもしれない。
そう思っていると、誰か自分の傍で膝を立てつつ囁いた。
「……クロイド。私は……お前に背負わせてしまったんだな……」
低く、穏やかな声を自分は知っている。いつもクロイドやアイリスを励まし、時には諭してくれる──ブレアの声だ。
けれど、満身創痍のクロイドは彼女に返事をすることが出来なかった。
「──ユアン、レイク、そして『霧』。クロイド達をすぐに医務室へ運んでくれ」
「ですが、まだ魔物の襲撃は終わっていないかと」
「……じきに、くそ爺……じゃなかった、黒杖司のベルド・スティアートがここへ来るだろう。周辺の警備は心配しなくていい。今はとにかく彼らを医務室へ」
「分かりました」
ブレアはてきぱきと指示を出す。薄っすらとした意識の中で、クロイドは彼女へと視線を向けた。
ブレアはどこか彼女自身を責めるように、だが嘆くような表情を浮かべていた。
……ああ、そうか。ブレアさんは、イリシオス総帥を……。
彼女がイリシオスに対して、どんな想いを抱いているのか知っている。けれど、クロイドはブレアの心情よりも、イリシオスの決意を優先した。
クロイドは心苦しさから、顔をぐっと歪めた。
するとブレアがクロイドの肩を軽く叩いた。
「……クロイド。お前だけは……自分を責めるなよ。お前が選んだ選択を私は否定しない」
だが、とブレアは言葉を続ける。
「私が不甲斐ないばかりに、よりにもよってお前に重荷を背負わせてしまった。……本当にすまない」
「……」
それだけを言い残し、ブレアは背を向け、塔の方へと向かって走っていく。
クロイドが意識を失いかける直前に見たのは、今にも泣きそうな表情のブレアだった。
・・・・・・・・・・
通い慣れた塔の通路をブレアはひたすらに走った。その先に、イリシオスがいることを信じて。
悪魔の魔力は感じないので、戦闘はすでに終わっているのだろう。
……胸が、苦しい。
本当は分かっているのに認めたくはなくて、目を逸らしそうになった。
何故なら、自分はまた──大切なものを失うのではないかと、怖くて仕方がなかったからだ。
大切だった人。大事な友人。そして、人生においての恩人。
もう、これ以上、失いたくはなかった。
……先生……っ! イリシオス先生……!
まるで、幼子のように心の中で恩師を呼び続ける。
脳裏に蘇るのは、ブレアがイリシオスの弟子になった日のことだ。
彼女がいなければ、出会っていなければ、今の自分は存在していない。
イリシオスが導いてくれたからこそ、ブレアはブレアらしくいられた。
『──ブレアよ。少しずつで良い。ゆっくりで構わない。好きなものを見つけなさい。そうすれば、お前の世界はもっと広くなり、自分自身も好きになれるはずじゃ』
自分と同じくらいの年頃にしか見えない少女が、そっと頭を撫でてくる。この時のブレアは剣術も魔法も好きではなかった。
けれど、何が好きかと訊ねられれば、すぐには答えられないくらいに好きなものがなかった。
今ならば、あれが少し早めの反抗期のようなものだったと分かる。
しかし当時、子どもにしては捻くれた性格をしていたブレアにとって、イリシオスの言葉は衝撃的だった。
何故なら魔法使いの名門であるスティアート家では、剣術と魔法以外に興味を持ってはいけないと教えられていたからだ。
当主だったベルドはこの時、すでに国内外を奔放に渡り歩いており、家の事情に口出しすることはなかった。
恐らく、当主として選ばれた彼も『スティアート家』のことを苦手としていたのだろう。
だからこそ、なおさら次期当主を望んでいた彼の親族や息子達がスティアート家で幅を利かせていた。
幼い頃から名門出身として、厳しい教育が施されていたがブレアにとって、窮屈でしかなかった。
誰よりも才能があるブレアに特別性を求めるくせに、ふさわしい力があれば血縁者であっても、激しく嫉妬してくるのだ。
なんと、醜い世界だろうかと思った。こんな世界の中で自分は生きていかなければならない。
それは幼いブレアに苦痛をもたらしていた。
だから、剣術も魔法も嫌いだった。さらに言うと、自分のこともあまり好きではなかった。
教育係となった血縁者でさえ、反抗的な態度のブレアにお手上げだった。
そんな時、魔法を教わるために親はブレアを無理やり、イリシオスのもとへと弟子入りさせた。
これまでたくさんの弟子を育て上げ、立派な魔法使いへと導いてきたイリシオスのもとでならば、ブレアも矯正されるだろうと期待したらしい。
それなのに当の本人であるイリシオスは決して、ブレアへ無理に魔法を教えることはなかった。
『学びたいという意欲が大事なのじゃ。学びたくない者に教えても、きっと身につくことはない。興味がないことを長時間し続けるのは、誰だって苦痛じゃろう?』
けれど、イリシオスが兄弟子達に魔法を教える姿を見て、ブレアの意識は少しずつ変わっていった。
もちろん、イリシオス自身は魔法が使えない。
それでも弟子がイリシオスから教えてもらった方法で魔法を発動させ、成功させた時、彼女はまるで己のことのように、弟子達の成長を喜んだ。
──ああ、これが本当の「師」というものなんだ。
失敗した時だって、イリシオスは決して怒ったりしない。
失敗したことを咎めるように叱るのではなく、どうして失敗したのかその原因となるものを共に考え、そして弟子達が自分の力で答えを導き出すのをゆっくりと待ってくれる。
押しつけばかりしてくる、どこぞのスティアート家の血縁者とは大きな違いだ。
だからだろうか、ブレアはイリシオスに師としてだけでなく、親のような感情さえも抱き、徐々に慕うようになっていた。
その頃から、ブレアは積極的にイリシオスの弟子として魔法を学び始めた。
お世辞などではなく、イリシオスは教え方が本当に上手かった。そして、学ぶ者達が伸ばしたいと思っている力を育てるのが誰よりも優れていた。
そんなイリシオスのもとでブレアはめきめきと頭角を現していった。
だが、イリシオスはブレアを最後の弟子とした。それを疑問に思ったブレアはイリシオスに訊ねたことがある。
『イリシオス先生。どうして、私を最後の弟子にしたのですか。もう、弟子は取られないのですか? 先生のもとで学びたいと思う者は多いと思うのですが……』
今でこそ後悔するが、この時の自分はあまりにも考えが足らなかった。
それでもイリシオスは気を悪くすることなく、ただ困ったように──そして僅かに悲しみと寂しさを滲ませ、小さく苦笑した。
『……少しばかり。ほんの、少しばかりな……見送ることしか出来ない自分に疲れてしまってな』
子どもだった自分は、この言葉を理解できていなかった。
ただ自分ならば、絶対にイリシオスにこんな顔をさせたりしないのに、と強く思ったものだ。
大人になるにつれて、イリシオスが言った言葉の意味が分かるようになった時、彼女が抱く感情がどのようなものかを知った。
見送るということがどういうことか──。
それは長い年月を生き続けるイリシオスが何度も経験したことだった。
彼女が共に生きてきた者、教えを授けた者、未来を見守った者──。
ウィータ・ナル・アウロア・イリシオスという人間が歩む人生は果てしなく長い。その中で出会い、別れた者は数えきれないほどいるのだと、やっと理解したのだ。
身体は不老だとしても、心が老いないわけがない。
途方もない時間の中で出会いと別れを繰り返したイリシオスの心は少しずつ疲弊していったのだ。
それは何と──何と、苦しいことだろうか。何と辛いことだろうか。
自分ならば、きっと耐えられない。見えぬ終わりがあり、永遠に生き続けなければならないならば、ブレアは恐らく自死を選ぶだろう。
だから、つい訊ねてしまったのだ。それがいかにイリシオスにとって残酷で、礼を欠いた問いだと分かっていても。
『イリシオス先生は……悲しむことになるならば最初から、大切にしたい人達と出会わなければ良かったと思いますか』
自分には分からなかった。
大切なもの、好きなものが出来た時、それを失うという恐怖が後からついてくるならば──最初から、出会わなければ良かったのではないかと思ってしまったからだ。
そんなブレアの心の弱さをイリシオスは許してくれた。
『自分以外の者を見送るのは確かに辛く、悲しい。けれどな、いつだって──出会えて良かった、とそう思っておるよ』
イリシオスは温かな笑みを浮かべ、彼女より身長が高くなってしまったブレアの頭を優しく撫でた。
まるで、ブレアと出会えたことを喜ぶように。
『幾万の出会いと別れの中で、自分を真に理解してくれる者がいる。自分を心から愛してくれる者がいる。そういった者との出会いは奇跡のようなものじゃ。……たった一人でいい。暗闇の中でうずくまっていた自分の手を引っ張り、己の世界を、己の道を明るく照らしてくれる者と出会えたら──』
イリシオスは一度、目を閉じ、それから穏やかな表情で笑った。
『生きていて、良かったとそう思えないか?』
その答えはブレアには眩しいものだった。
長く辛い旅路だとしても、その全てが苦しいだけではないとイリシオスは言っているのだ。
『きっと、わしに最期が訪れるならば、その時はこう思うじゃろうな。……満ちた、人生だったと』
その際にイリシオスが浮かべた笑顔をブレアは今でも覚えている。
昔を思い出していたブレアは唇を強く噛み、こみ上げてくるものを飲み込んだ。
……ああ、本当だ。やはり、イリシオス先生が言っていたことは正しかった。でも、それでもっ……! 分かっているのに、これが私の我儘によって生まれた感情だって、分かっているのに止められない……!
自分の感情が制御できないくらいに、ブレアの心は乱れていた。
塔の内部へ入ったブレアは広間となっている場所へ通じる扉を蹴破るように開けた。
「……先生──!!」
だが、視界に入ったものを認識した時、ブレアの顔はさぁっと青ざめる。
見えたのは、獅子に包まれた少女の姿。真っ赤な絨毯にも見える床の上で横になっているのは間違いなくイリシオスだった。
イリシオスの契約魔であるダスクはブレアが来たことを確認すると、役目が終わったとばかりに指輪の中へと戻っていった。
「先生っ! イリシオス先生っ!!」
ブレアは急いで駆け寄り、イリシオスの傍に膝をつく。彼女にかけられている外套に見覚えがあったが、今はそれどころではない。
下から滲んできているのか、外套に触った時、ブレアの手に付いたのは赤いものだった。
「……っ!!」
外套を捲ってみれば、イリシオスの身体は真っ赤に染まっていた。傷口にしては大きすぎる怪我をしており、正直に言って助かる見込みなどないものだった。
「どうか、しっかり……! 先生っ……」
ブレアは普段から攻撃魔法と剣術ばかりで、治癒魔法はあまり得意ではない。けれど、そんなことは言っていられないとすぐにイリシオスへと治癒魔法をかけた。
痛みを抑え、出血を止める魔法をかけていくが、力不足を感じてしまうのはイリシオスの顔が恐ろしい程に白く見えるからだろう。
「……あぁ……。ブレ、アか……」
それまで閉じていたイリシオスの瞳がわずかに開く。
「先生っ……!」
言葉が返ってきたことで僅かに安堵したブレアだったが、イリシオスは何もかもを受け入れたような達観した表情を浮かべていた。
先程よりも少しだけ呼吸が整ったイリシオスはか細い声で言葉を発した。
「……ブレアよ。わしをこの短剣と共に、医務室へ運んでくれぬか」
イリシオスの傍には血濡れの短剣が置かれていた。
言われなくても最初から医務室へ連れていき、治療を受けさせるつもりだと答えるよりも早く、イリシオスは言葉を続ける。
「最後の仕事をせねばならん」
「……は……?」
何を言っているのか、ブレアは分からなかった。
「悪魔の……。ハオスの、魔法を解かねば……。それが出来るのは……古代魔法を知っておる、わしだけじゃ」
もう、自力で起き上がる気力もないはずなのに、イリシオスの瞳には強いものが宿っていた。
「っ……。ならば、私に教えて下さい……! 私がっ、先生の代わりにやりますから……!」
「それはできぬ」
はっきりとした口調でイリシオスは拒否した。
「たとえブレアであっても、短い時間でこの魔法を理解し、習得することは出来ぬだろう。教えている間に、わしの身体の方がもたなくなってしまう」
「……っ!」
「それに何より……。この身に刻んだ古代魔法の全て、誰にも伝えることなく、墓場に持っていくと決めておる」
瞳は一切、揺らいでいなかった。彼女は全てを背負おうとしているのだろう。
何のためにそうするのか分かっている。
魂に関することに長けた古代魔法は、現代に存在してはならないものだ。
たとえ、どんなに有益であっても、イリシオスはそう位置づけた。それはイリシオスの人生において、信念ともいうべきものだった。
「……頼む、ブレア。この命が、尽きてしまう前に」
向けられる視線はあまりにも真っ直ぐで、出会った時から何一つ、変わっていない。
……ああ、イリシオス先生は、もう……。
彼女自身のことだ。己の身体がどのような状態なのか、ブレアよりもよく分かっているのだろう。
思わず泣きそうになったブレアは唇を強く噛み、そして両手で拳を作った。爪が指に食い込み、血が出ても気にしなかった。
……このわがままを、伝えることは出来ない。
心から大事だと思っている人に生きて欲しいと願うことさえ、叶わない。
ブレアは吐き出しそうになるものを全て飲み込んだ。でなければ、イリシオスの望みを妨げてしまうからだ。
「分かり、ました……」
それだけを何とか絞り出す。
彼女の決意を蔑ろにすることは尊厳を傷付け、否定することと同義だ。けれど、どうしても受け止めきれないのはきっと、自分の心を優先しようとしてしまうからだ。
イリシオスもブレアが言葉にしないことを分かっているのだろう。
彼女は薄っすらと微笑み、血で濡れた手をブレアへと伸ばしてくる。その手をブレアは両手で包み込むように掴むと、自身の頬へと添えた。
たとえ、イリシオスの血で顔が濡れようとも構わなかった。
掴み、添えた手に熱は宿っていない。もう、この身体は終わりへと近付いているのだ。
いくら高度な魔法をかけようとも、それは意味をなさない。
……イリシオス先生の手はこんなに、小さかっただろうか。
初めて、頭を撫でられた時のことを思い出す。
自分とそれほど、歳が変わらない姿のイリシオスが慈母のような笑みを浮かべ、ブレアを真っ直ぐ見つめてくれた日のことを。
「……すまんの、ブレア。……恩に着る」
「いいえ。……いいえ、イリシオス先生」
だって、自分はイリシオスの弟子なのだから。そう言いたくても、言えなかった。
ブレアの表情が子どものようにくしゃり、と崩れた。
すぐにイリシオスを医務室へと運ばなければならないというのに、ブレアは言葉が詰まってしまい、それ以上、声を発することが出来ずにいた。




