弟子と師
するとセドが落ちていた短剣を拾うと、腹部を片手で押さえながら、ふらふらとした足取りでイリシオスのもとへとやってきた。
そして、イリシオスの目の前へと短剣を置く。短剣はハオスの血がべっとりとこびりついていた。
「……受け取って良いのか」
悪魔を殺す聖なる刃。
それがなければ、ハオスに止めを刺せないのではと暗に問えば、セドは首を横に振った。
「一度、心臓を一刺しした以上、奴は弱体化している。あとは心臓を抉りとり、塵を残すことなく奴の魂ごと、その身を焼き尽くせばいい。……同じ悪魔なのだから、その手のことはリベルの方が詳しいだろう」
「……そうか。ならば、ありがたくいただこう」
ハオスの魔法を受けた団員達を目覚めさせるためには、奴の血が必要だったため、正直に言えばその申し出は助かる。
「おーい、セド。この範囲の向こう側なら、魔法が使えそうだぞ」
「分かった」
リベルに対し、短い返事をした後、何故かセドは自身が羽織っている外套の結び目を外していく。
そして、今も起き上がれないままでいるイリシオスの身体へとそっとかけた。そこには血濡れのイリシオスに対する気遣いが含まれていた。
「セド……」
「本当ならば、すぐにでもあなたを他の魔法使いのもとへと運び、治癒魔法を受けさせるべきだと分かっています」
少しだけ早口で、彼は言葉を告げる。
「ですが、時間がないので、ここで去ることをどうかお許し願いたい。……それに私はすでに教団にはいない者だ」
碧眼が細められる。若い頃から、彼の真っ直ぐな瞳だけはいつも変わらない。
たとえ、どんな願い、望みを抱こうとも歪むことなく真っ直ぐだった。
「……なに、わしのことならば心配いらぬ。そのうち、誰かが迎えに来てくれるじゃろう」
塔を覆っていた結界はすでに壊れ、塔内にあったはずの悪魔の魔力は消え去っている。
ならば、誰かがイリシオスとハオスの戦闘が終了したことを確かめるために入ってくるはずだ。
「セド、行く前に最後の言葉を聞いていってくれぬか。……恐らく、もう会うことはないじゃろう」
「……」
イリシオスの前から離れようとしたセドはぴたりと足を止める。それは彼の返事でもあった。
「お主にとっては自身のためかもしれぬが、共に戦ってくれたこと、深く感謝する。……それとお前はもう、わしの弟子ではないと自分で思っているのかもしれぬが……わしにとっては大事な弟子の一人だ。ずっと、ずっと、そうであることに変わりはない」
「……」
「どんな道を選ぼうとも、どんな人間であろうとも──。セド・ウィリアムズはわしの弟子だ」
魔力を持たない魔女であり、魔法使い達を統べる総帥イリシオス。
魔力持ちの純血だけで紡がれているウィリアムズ家の嫡子、セド。
最初の出会いは彼がイリシオスの弟子になった時だ。
普段は無口で無感情。しかし、胸の内側には熱いものを秘めている「少年」だった。
だが、セドはいつしか、イリシオスに対して表に出せない感情を持つようになっていた。
そこには「ウィリアムズ家」としての矜持と願いが含まれていたのだと分かっている。狂っているようで、あまりにも純粋過ぎる願いを彼はずっと抱き続けていた。
それは叶うことはなく、彼が歩こうとした道は閉ざされた。
やってはならないことを彼は行ってしまったからこそ、お互いの道は決して交わらない。
けれど、それでも──。
何があっても、彼が自分の弟子であったことだけは確かだ。
「誇り高き門の名の末裔よ。曇ることのない瞳を持つ者よ。わしはお前を弟子にできたことを誇りに思おう」
弟子の新たな旅立ちを見送る師のように、イリシオスは満足げに、しかし慈愛に満ちた笑みを浮かべた。
背を向けていたセドはこちらへと振り返る。
それまでは陰を感じる表情をしていたというのに、この時だけは違った。
「──先生。私もあなたの弟子だったことは、この人生において忘れられないほどに得難きものでした。……今まで、ありがとうございました」
それは春の風が吹くような、爽やかで穏やかな笑みだった。
これまで彼と接してきた中で、初めて見る晴れ晴れとした笑み。まさかそれを最後の別れの時に見ることになるとは思っていなかっただろう。
「ああ、さらば、セドよ」
セドは再び、イリシオスへと背を向ける。
しっかりした足取りで、「万物への祈りは無となる」が届く範囲の向こう側へと歩いていく。
彼が行く先には、すでに転移の準備をし終えているリベルがいた。
セドがリベルの手を取った瞬間、彼の中に溶け込むようにリベルが入っていく。
そして、彼の足元に現れた魔法陣が淡く光り、セドの身体を包み込んでいった。
「……」
イリシオスの前から去る瞬間まで、セドはこちらを振り返ることはなかった。やがて、セドは魔法陣の中に吸い込まれるように消えていく。
セドを見送り、イリシオスは深い息を吐いた。
「万物への祈りは無となる」も、もうすぐ切れるだろう。「月桂樹の杖」を使って魔法を維持していたが、あの杖に残っているエイレーンの魔力の残量もそれほど多くはないはずだ。
何せ、ハオスとの戦闘で魔法を連発した上に、最後は魔力を多く使う古代魔法を使用したのだから。
それでも、あの杖を使って、もう一仕事しなければならない。
すると、先程の戦闘の際にハオスに吹き飛ばされ、壁に激突し、気を失っていたダスクがイリシオスのもとへとやってくる。
ダスクは口元を真っ赤に染めており、怪我をしているようだったが、命にかかわるものではないようで、イリシオスは深く安堵した。
「……すまんのぅ、ダスク。あの時……お主のもとへ駆けつけてやれず……」
「……」
ダスクは鼻の先をイリシオスの頬へとすり寄せる。
まるで、気にしていないと言わんばかりに。
イリシオスは小さく笑い、震える手をゆっくりと伸ばし、ダスクの顎の下辺りを優しく撫でた。
「……思い返せば、お主との付き合いももう五百年程か……」
長い時間、共にいたからこそ、イリシオスとダスクの間には同士以上の情があった。
それは決して、主従という関係ではない。見送る側としての理解者でもあった。
けれど、それも今日で終わりなのかもしれない。
「お主はわしにとって、最高の相棒じゃったぞ……。エイレーンにも、そう伝えておこう。……なに、安心するがいい。お主を預ける相手は決まっておる。今後はその者のもとで、お主らしく過ごすのじゃ」
「……」
ダスクが低く鳴いた。
そして、イリシオスの身体を温めるようにその身を寄せて、横になる。
「……ああ、すまない。ダスク……。……温かい、はずなのだ。それなのに……お前の温かさ、分からなくなってしまった……」
これまで何度も撫でてきたからこそ、知っているはずのダスクの体温をもう、自分は感じられないのだと自覚する。
ダスクを撫でている力が弱まり、感覚が少しずつ失われていく。
自分の身体が、冷たくなっていく。
心配するようにダスクがイリシオスの顔を覗き込み、顔に付着していた血を長い舌で舐めとった。
「なに、大丈夫じゃ……。まだ、やらねばならぬことが残っておる。……総帥として、最後の……仕事じゃ……」
だから、と言葉を続けた。
「その時まで……わしの隣にいてくれよ、ダスク。……わしの、相棒。わしの……愛おしき、友よ……」
イリシオスのか細い呟きに対し、ダスクは小さく鳴いた。
低く、切ない声が確かに聞こえたはずなのに。
友の声がとても遠くに聞こえたのだ。
ほんの少しだけ目を閉じようとした時、塔の中に誰かが入ってきたのか、大きな物音が響き渡る。
「先生──!!」
それはイリシオスの人生において、最後の弟子となった者の声だった。