自由を歩む者
ありえない、と混沌を望む者の表情が語っていた。
人間の身体を借り物とし、そこに魂を定着させているとは言え、悪魔である彼が銀の刃で貫かれることなど、ありえないと。
「がっ──はっ……ぁ!」
ハオスは自身の胸に咲いている銀色の刃から何とか逃れようとした。
だが、先程、イリシオスの身体に己の腕を突き刺したままであるため、簡単に抜き取ることは出来なかった。
何故なら、イリシオスが絶対に逃がすまいとハオスの腕にしがみついているからだ。
たとえ、激しい痛みに襲われようとも、細い身が何度えぐれようとも、この腕だけは絶対に離さない、と。
「──混沌を望む者。お前の魂、消させてもらう」
「っ……。その、声……! お前っ……セド・ウィリアムズか……っ!」
ハオスの背後にいるのはセドだ。
正確に言えば、背後から刃を突き刺しているのが彼だった。
「くそっ……。今まで、どこにっ、隠れていやがった……!?」
「ずっとお前の真後ろにいた。気配を消して、な」
冷静な声でセドは答え、逃げられないようにと左腕でハオスの首をがっしりと固定し、銀色の刃を更にハオスの身体へと押し込む。
鈍い声がハオスから上がり、その場に響いた。
「がぁっっ!? ……たかがっ、取るに足らねぇ、魔法使いごときがっ……! 気配を魔法で消しただけで、俺の魔力探知から逃れられる、と──」
すると、ハオスは何かに気付いたのか、目を大きく見開いた。
「なっ……んで、あいつの、魔力が……!? 確かにっ、俺は確かにあの時──……! 殺したはずだ……! 殺して、奪ったはずだ……!」
痛みに耐えながら、ハオスの腕を掴んでいるイリシオスは気を失いそうになりつつも、セドの後ろへと視線を移す。
すると今までセドに憑りついていたものが、剥がされたように人影がすっと現れた。
そこには美しい黒髪を揺らめかせ、宝石のように澄んだ「緑色の瞳」でハオスに冷めた視線を向ける少女がいた。
いや、正しくは少女の形に姿を模した者、だが。
……似ている、彼女に……。
イリシオスは一度、目にしたことがある「少女」の姿を脳裏に浮かべ、目の前にいる少女と重ねた。
「──だが、私を上手く殺しきれなかった証が今、お前の胸から咲いているじゃないか、混沌を望む者よ」
少女はハオスの前にわざとらしく姿を見せる。彼女を視界に映した瞬間、ハオスの目がかっと開いた。
「ラザリー・アゲイル……!? ……いやっ……お前、は……っ!」
「久しぶりだな、ハオス。お前に借りを返さねばならぬというのに、随分と寝坊してしまったが、許してくれるだろう? 何せ、私とお前の仲だ」
少女の口調は尊大で、イリシオスが知っている「ラザリー・アゲイル」とは違っていた。
ただ、見た目がラザリーなだけだ。着ている服も、完璧に再現している。
それでも、ハオスはまるで──本当の意味で、蘇った死人を見たような顔をしている。
「そして、改めて教団の総帥に挨拶を。我が通り名は『自由を歩む者』。かつて悪魔十二席の十一席を貰っていた大悪魔……。いや、今はセド・ウィリアムズと契約を結んだ、ただの悪魔だ。リベルとでも呼んでくれたまえ」
そう言って、「自由を歩む者」は優雅な動作でスカートの裾を掴んだまま、軽く頭を下げてくる。
声を発することさえも難しかったイリシオスは口元を少しだけ緩める。
そして、今回の件に協力してくれたリベルに、感謝の意を伝えるため、無言のまま頷き返した。
時間を巻き戻すこと、半日以上前。クロイド達がセドと接触した際に彼はイリシオスへの伝言として「自由を得た」と告げてきた。
その意味を理解できる者は教団内にはわずかしかいないだろう。
悪魔十二席の元十一席、「自由を歩む者」。
その名の通り、誰よりも「自由」を好む彼女は悪魔の中では変わり者らしい。
席に名を置いてはいるものの、その身はまるで風のようにあらゆる場所を旅しており、それまでは所在を掴むことさえ出来ない悪魔だった。
だからこそ、そんな彼女が今回の件でわざわざセドと「契約」をしてまで自ら縛られることを選んだ理由をイリシオスは察していた。
……やはり、そうか。自由を歩む者は混沌を望む者に殺されかけ、席を奪われたのだろう。
基本的に悪魔はやられっぱなしの性格をしていないと知っている。
恐らくだが、殺されかけて消滅を待つ身だったリベルはセドと契約し、彼を器とすることで魂が保っている状態なのだろう。
全てはハオスに復讐するために、彼女は自分が最も嫌う「縛られる」ことを選び取ったのだ。
……しかし、悪魔とは言え、ハオスに恨みを持つリベルの協力を取り付けられたことは不幸中の幸いというべきか……。いやはや、セドの奴、一体どこでリベルと出会ったというのか……。
彼らの出会いは恐らく、セドが教団を出てからなので、共にした時間はそれほど経っていないはずだ。
ハオスが十一席の座に座ってから百年程が経っているというならば、リベルは彼に殺されかけてから危うい状態のまま、長い年月を何とか保ち続けてきたのだろう。
だが、そんな彼女の堅忍と執着がセドと出会う起点となったのだ。
……何より、この作戦はリベル無しでは上手くいかなかったじゃろうな……。
魔力探知に長けているハオスを欺くためには、リベルの協力が必須だった。
たとえ気配を消すことに優れた魔法使いがハオスの相手をしても、看破されていたに違いない。
しかし、同じ「悪魔」──いや、ハオスよりも上位の悪魔である自由を歩む者ならば、話は別だ。
予想通り、リベルの魔法によって姿と気配を完璧に消したセドをハオスは感知できなかった。
実はイリシオスがこの塔に入った時から、セドは後ろに控えていた。
そして、声を発することも、魔法を一切使うこともなく、この場にずっと潜み続け、「その時」が来るのを待っていたのだ。
イリシオスが発動させた古代魔法によって、ハオスが魔法を使えないようになれば、彼の魔力探知ももちろん途切れる。
その際に必ず彼の死角に入り込み、自分に構わずハオスを殺せとセドには事前に伝えていた。
「くっ……。殺した、はずだ……! 手応えだってあった……! 何故、お前が生きているっ!?」
ハオスはぎりぃっと歯を食いしばりながらリベルに向かって吠える。
「ああ、そうだね。確かに私はお前に殺されかけたよ。今、まさにお前の心臓に突き立てられている『魔縫いの聖刃』でね。いやぁ、痛かった、痛かった。……でもな、動くことも出来ないぎりぎりの状態だったが何とか百年、生き延びたのさ」
ずぶり、と生々しい音が響き、ハオスの胸から更に短剣の刀身が生えてくる。強い痛みを感じているのか、ハオスは鶏を絞めたような声を上げた。
「私が優雅に悠々と昼寝をしている時に忍び寄ってきて、聖なる魔法で鍛えられた刃でいきなり、ぶすり、だもの。本当、良い性格をしているよ、お前は」
からからと笑いながら、リベルは唇で弧を描く。その表情はやはり悪魔と呼ぶべきものだった。
「まぁ、この私を殺してまで手に入れたいくらいに欲しかったんだろう、第一位の者から与えられる『権能』が」
リベルはまるで駄々をこねる子どもを窘めるような声色で言葉を続ける。
イリシオスも、悪魔十二席の頂点に座している悪魔が、席に座った者が求める「権能」を授け、渡していることを知っている。
ハオスはそれを望み、リベルを奇襲したのだろうか。
「……けれど、私の意思を無視したことは実にいただけない。私の『自由』を阻害することだけは、誰であっても許されない。それだけで十分、報復に値するだろう、ハオス?」
「っ……」
妖艶な笑みを浮かべるリベルを見たハオスの顔が、さらに青白くなっていく。残忍で傲慢なハオスであっても、相手に引けを取ることはあるらしい。
本当ならばリベルという存在は、ハオスにとって恐るべきものだったのかもしれない。それでも彼は彼女を手にかけることを選んだ。
欲しいものを手に入れるために。
「さぁ、セド。そのまま『魔縫いの聖刃』でこいつの心臓を抉ってやってくれ」
まるで、料理の下処理は任せたと言わんばかりに、軽々とした口調でリベルはセドへと促した。




