血の楔
どれ程、攻撃を受けては逃げることを繰り返しただろうか。滴った血はその場に染み込むように痕を残したままだ。
この戦いにおいて最も必要なのは、けして魔力量だけではない。針目に細い糸を通すような繊細さと忍耐力がなければ、まずは成功しないだろう。
……あと、一つ……! 焦るな! 覚られるな……!
失敗だけは許されないのだと、己を戒めるように強く唇を噛む。
イリシオスは混沌を望む者から次々と繰り出される攻撃を避けつつ、次の「地点」を目指して走り出す。
……しかし、あの悪魔は本当に性悪じゃのぅ……。
もはや、彼に任せられた使命を忘れ、欲のまま動いている。
だからこそ、御しやすいとイリシオスは心の中で呟く。
だが、考え事をしている暇などない。
再び、降ってくる攻撃を防ぐためにイリシオスは結界を展開するも、その攻撃は弧を描くように動きを変えた。
「っ……!」
肩に深く刺さったのは、裁縫に使う針のように細く尖った氷の矢だった。
イリシオスの顔が苦痛で歪むのを見ては、ハオスはにやりと嫌な笑みを浮かべる。
「こっ……の……!」
杖を持っていない方の手で、イリシオスは肩に刺さった氷の針を思いっきりに抜いた。
鮮やかな血飛沫が宙を舞い、その場に雫を落としていく。
それは、最後の一滴だった。
息づく間もなく、ハオスが腕を横に薙ぎ、新たな魔法を生み出そうとしていた。
「ほらほら、どうした? さっきから、俺にかすり傷一つ、付けられていないじゃねぇか。俺を殺すって吠えていたのは寝言だったのか?」
宙に浮かびつつも、ハオスは寝転ぶような体勢のままイリシオスを見下してくる。
「千年を生きた魔女だと聞いていたから、どんなものかと思っていたが……。俺に届く攻撃さえもまともに放てないとはなぁ。……実に残念だ」
イリシオスの反応が見たいのか、ハオスは安い挑発をしかけてくる。
ならば、嗤ってやろう。
彼がそれを望んでいる。
「わしがわざわざ攻撃を届かせる必要などない」
「……は?」
イリシオスは「指輪」をはめた右手を頭上にかざす。
「──お前がここに、堕ちてこい」
その瞬間、指輪がカッと輝き、光が空間を満たしていく。イリシオスとハオスとの間に交わされていた視線は姿を現した大きな影によって断たれた。
まるで太陽のような輝きを持つ黄金色の毛並みを煌めかせながら、流れ星が如く、その影はハオスへと突撃する。
召喚された美しい獅子こそ、友人のエイレーンから譲り受けた契約魔「黄昏」だった。
「っ──!」
突然、出現した獅子による攻撃を一切、予測していなかったハオスは咄嗟に回避できなかったようで、ダスクに腕を噛み付かれていた。
獅子の巨体によって、ハオスの視界は完全に遮られる。宙に浮かんでいたハオスはダスクに圧し掛かられたことで、体勢を崩していた。
重さによって浮遊し続けることが出来なくなったのか、ハオスはダスクと共に激しい音を立てつつ落ちてくる。
捕らえた獲物が逃げないようにと、ダスクは身体の全てを使って、ハオスを押し倒していた。
「ダスク、死んでも離すなよ」
ダスクはただ、イリシオスの言葉の通りに動くだけの契約魔ではない。
会話をしなくても、心の深い部分で繋がっているからこそ、何故この悪魔を押し留めておかなければならないのか、ダスクは分かっていた。
「こっ、のっ……! くそっ、離しやがれ!」
ダスクの牙はハオスの右肩に食い込むように突き刺さっていた。しかし、ハオスはすぐに魔法を使って、ダスクを引き離そうとする。
その前に、イリシオスは最後の仕上げを始めた。
……この魔法を使うと決めた時から、心は定まっておる。
かつての友人から渡された杖を両手で構え、声を発した。
「我が血は証。我が血は楔。我が血は檻」
杖の石突を二回、叩くように鳴らす。
瞬間、拭った時に指に付着した己の血が淡く光り始める。
だが、それだけではない。
その部分を起点として、細く光る線が糸を辿るように繋がっていったのは、先程イリシオスが床上へと落とした血痕だった。
五ヵ所に落としてきた血は媒体でもあり、楔でもあり、標でもある。
ハオスに知られないように密かに落として仕込んでいた血痕の一つ、一つが素早く繋がっていき、それはやがて自分達を囲う円となる。
「この身こそは、天地万象に捧げたる供なり」
ただ、ハオスの攻撃から逃げ回っていただけではない。
魔法による攻撃を庇いきれず、負傷したわけではない。
全部はこの時のための布石。
一つ、一つがハオスを囲う魔法陣を作り上げる準備だった。
何故なら、イリシオスは最初からこのためだけに、演じていたのだから。
「然らば、応えよ! 応えよ! 今、ここに留めしものの核を封じよ!」
もう一度、杖の石突を鳴らす。
この世に存在してはならない相手を屠るためならば、どんな手段でも使ってみせよう。
相手が古代魔法を使うというならば、こちらも遠慮なく使わせてもらう。
「っ──くそがぁぁっ!」
ハオスはイリシオスがどんな魔法を使う気なのか、すでに察したようだ。
自身の腕に噛み付いたまま押さえているダスクを引き離すために、わざと食い千切らせると同時に腕に通っていた魔力を遠隔で操作したのか、爆発させていた。
その反動により、ダスクは血を流しながら壁際まで吹き飛ばされる。
長年を共にしてきたダスクの身を案じたい衝動をぐっと堪え、イリシオスは杖を強く握り直し、詠唱を続ける。
「やっ、らせぇ、るかぁぁあぁっ……!」
片腕だけでなく、半身も失いかけ、出血しているというのにハオスはまだ動けるようで、血走った瞳でイリシオスを見据える。
その姿はまるで瀕死の獣だった。
イリシオスは、瀕死の獣こそが最も恐れるべき相手だと知っている。
余裕を持ち、油断している相手の裏をかくことは難しいことではない。
けれど、瀕死の者の思考と動きを読むのは難しい。
そこに含まれているのは憤怒、苦痛、そして──死に抗う全力の意志だ。
腕の再生よりも、ハオスが優先したのはイリシオスに反撃することだった。
気付いた時には彼の残った左腕が黒曜石のように変化していた。
確か、アイリス達がハオスと最初に交戦した際の報告書によると、この悪魔は身体を硬化させることが出来るらしい。
硬化した黒い腕はまるで心臓に打ち込む杭のように尖っていた。
その杭がイリシオスへと狙いを定めてくる。
それでも、構わなかった。
自分は餌なのだから。
瞬く間もない短い時間。
刹那、と呼ぶべきほんの一瞬。
ハオスの左腕がイリシオスの身体を──貫いた。
「が、はっ──!」
身体の中で、冷たさと熱さが交じり合う。
激しい痛みと永遠への眠気が同時に襲ってくる。
そんなこと、最初から分かっていた。
けれど、やめるわけにはいかない。自分の手には、まだやるべきことが残っている。
やらなければならないことが、残っている。──自分を待っている者がいる。
ハオスはイリシオスを完全に仕留めた、と思っているのだろう。血を流している口元が歪な弧を描いていた。
喉を潰されなくて、本当に良かった密かに安堵する。でなければ、詠唱が出来なくなるからだ。
ほんの少しだけ、運に懸けていた。
この手の性格をしている相手は反撃するならば、生命の継続を止めるために必ず首か心臓を狙ってくるだろうと思っていたからだ。
血に染まったまま、イリシオスは言葉を紡ぐ。
「──……奇を起こしたる理よ、全ての始まりにして終わりなるものよ、悠久たる無に還れ! 万物への祈りは無となる……!」
瞬間、杖の核となる水晶が輝き始める。
二人を囲うように形成されていた魔法陣も同じように光り始め、光の柱が真っ直ぐ上へと伸びていく。
これは魔力の使用を防ぐための古代魔法だ。この魔法陣の中にいる限り、発動させた術者でさえ魔法を使用することは出来ない。
つまり、これで自分とハオスは何も出来ない存在へとなり下がった。
イリシオスの腹部を抉るように突き刺しているハオスの腕は、魔法が使えなくなったことで、硬化が徐々に解かれていき、血に染まった細い腕へと変わっていく。
ハオスもイリシオスが何の魔法を使ったのか、身を以って理解したのだろう。
だが、彼の顔にはまだ己が優位だという余裕が滲んでいた。
それでもイリシオスは焦ることなく、持っていた杖をその場へと捨てる。
魔法を使う上で、大事な道具である杖を自ら手放す──という行動に理解が追いつかなかったのか、目の前にあるハオスの瞳は丸くなっていた。
空いた両手を使い、イリシオスは己の腹を抉るように突き刺しているハオスの腕にしがみつく。
腕を抜かせてしまえば、逃がすことになるからだ。
イリシオスは自分の身体を楔として使い、ハオスが一歩も動けないようにと縫い留めた。
「なっ……!?」
イリシオスの行動に驚きを隠せなかったのか、ハオスの身体は一瞬だけ強張った。
ずっと、ずっと、この時だけを待っていた。
このためだけに、準備をしてきた。
ハオスはこの戦いにおいて、イリシオスから繰り出されるあらゆる魔法攻撃を警戒していた。
だからこそ、彼が常時、「魔力探知」を発動させていたことを知っている。
魔力を持つ人間だけでなく、魔法が発動し、どこから放たれるのかを感知するための魔法。
その魔法をまず、封じなければならなかった。もちろん、この古代魔法を使えば、イリシオス自身も魔法が使えないことは分かっていた。
最後の──最後の止めを刺すのは、自分でなくてもいい。
ただ自分は、「混沌を望む者」を殺すことが出来ればいいのだから。
身体の内部を抉られる痛みに耐えながら、イリシオスは吠える。
「──来い、セド!」
刹那、ハオスの胸部から鮮やかな色を纏った、美しくも鋭い刃が花を咲かせるように生えた。




