月桂樹の杖
ハオスが言っていた、力を持った自己中心的な人間がもたらす、悪夢のような現実をイリシオスは千年前に身を以って味わっている。
だからこそ、彼からの問いかけは脅しだと分かっていた。
強欲さと傲慢さを抑えきれない愚者が何をしでかすか分からないだろうと問いかけつつ、エレディテルの望みのために「犠牲」となる人質の存在を示しているのだ。
故に、彼が次に自分へと何を告げるのか、安易に想像出来た。
「こうやって選択肢を与えてやっているだけでも、十分過ぎる温情だろう? あんたが俺にたった一滴の血を寄越せば、それで全て解決なんだからさ」
「……」
無駄だと思った。この手の者は話し合いをしても意味がない。
最初から、自分の思い通りになると、それしか頭に入っていないのだから。
それまで冷めた表情を浮かべていたイリシオスは、ハオスに聞こえるように鼻で笑ってみせた。
「……何がおかしい」
自分にとって不快なことがあると、すぐに顔に出てしまうのだろう。
まるで、子どものようだ。
イリシオスは笑っていた表情から、すっと無表情へと戻す。
「──話はそれだけか?」
「っ……」
ハオスは顔を顰めていく。
「おいおい、総帥様よぉ……。せっかくの提案、そっちから断る気じゃねぇよな?」
「むしろ何故、受け入れると思った?」
「あんたは随分とお優しいみたいだからな。可愛い、可愛いお仲間のためなら、簡単にその身を差し出してくれると思ったぜ」
でも、とハオスは言葉を続け、白い右手を自身の顔の横へと構えた。
「残念だが話し合いはここまでのようだな」
ぱちん、と彼は指で軽やかな音を立てる。
「この国の人間は、その身を差し出さなかったあんたを恨むだろうな。……考えてみろよ。あんたが一滴でも血を渡しておけば、傷付かずに済んだ奴が大勢いたかもしれないのに。……本当、自分勝手だよなぁ?」
劇場の上に立っているように、彼は大げさに両手を広げる。
「ま、あんたに用があることに変わりはないんだ。あらゆる魔法と知識が刻まれたその血──頂くぜ?」
まるで玩具を借りていくような気軽さだ。魔力を持たないイリシオスを明らかに見下しており、簡単に血を奪えると思っているのだろう。
イリシオスは喉の奥で小さく笑い、首を傾げつつ、青い瞳を細めた。
「ほぅ、奇遇じゃな。わしもお主に大事な用があるんじゃよ」
イリシオスは右手で掴んでいる杖で、床を二回叩く。
ハオスは一瞬、身構えていたようだが、特に何かが起きることはなかった。
「ったく、何だよ。肩透かし、か──」
緊張の糸を張ることが不発となったハオスは馬鹿にするように笑っていたが次の瞬間、目を大きく見開き、周囲を見渡した。
彼も何かが起きた、とようやく理解したのだろう。
「てめぇ……。何をした……?」
「言ったであろう、わしもお主に用があると」
何もおかしなことは言っていないと言わんばかりにイリシオスは肩を竦めてみせる。
「ただ、この塔からお主が出られぬように結界を張ってもらっただけじゃ。……ほれ、さすがのお主でも転移出来ぬじゃろう?」
「……ちっ……。妙な魔法、使いやがって……!」
先程、イリシオスが杖で床を叩いたのは、塔の外側で結界の準備をして待機している者達への合図だ。
杖の下には魔法で見えないように細工された魔符が敷かれており、その魔符の対となるものを外側で待機中のウェルクエントが持っていた。
この魔符を通して、向こう側にこちらの会話や音が聞こえるようになっており、杖で床を二回叩くことで結界を張ってもらう合図となっていた。
「お主に易々と逃げられては、こちらが望むものが手に入らぬからのぅ」
血が欲しいのはお互い様だろう。
魂を抜かれた状態の団員達を救うには、ハオスの血から魔法式を読み取り、解除しなければならない。それが出来るのは教団内ではイリシオスだけだ。
「はっ、俺と戦う気かよ? 魔力を失ったお前が?」
「守るべきものを守るために、それらの上に立つ者が戦うことは、何もおかしいことではないじゃろう?」
「ははっ、総帥様は冗談も言えるのかよ。……あんたのそれは無謀、って言うんだぜ?」
ハオスの嘲笑にイリシオスは言葉を返さず、代わりに返したのは無詠唱によって発動した氷属性の魔法だった。
床から生成されるように出現した透明な氷の刃は、ハオスの首に狙いを定めて真っ直ぐ、そして音を立てることなく飛んでいく。
「うおぅっ!?」
突然の攻撃に驚いたものの、ハオスは咄嗟に空中に逃げるように飛ぶことで避けたようだ。
イリシオスはこの音もない不意打ちとも言える一撃でハオスを仕留められなかったことを深く残念に思ったが、この程度の攻撃で殺せる程、悪魔を狩るのは容易いことではないと分かっていた。
「魔力は持っていなかったんじゃねぇのかよ!?」
ハオスは床上に着地しつつ、イリシオスへと怒鳴るように問い詰めてくる。
最初から見下していた彼のことだ。魔力を失ったイリシオスの相手など、赤子の首をひねる程に簡単なことだと思っていたのだろう。
「魔力はないが、魔法は使えない──と誰が言った?」
イリシオスは冷めた瞳でハオスを見据えつつ、杖を構え直した。
月桂樹の枝を杖にしたものの先端には美しい色の水晶が核としてはまっており、それに沿うように永遠に枯れることはない月桂樹の葉が付いていた。
何故、月桂樹なのか──。
それはこの杖の作り手であるエイレーンが「ローレンス家」の者だからだ。
「ローレンス」という名前には「栄光ある月桂樹の冠を戴く者」という意味が含まれている。
エイレーンがその名の意味をイリシオスや他の友人達へと明かした時、「自分はそんな大層な人間ではない」と苦笑していた。
彼女にとって、「ローレンス」という名前はもしかすると重荷でしかなかったのかもしれない。
それでも彼女は臆することなく、自分に関わる全てに真摯に向き合っていた。
そして、この「月桂樹の杖」を作った時、エイレーンは自分の名と同じ枝を使ったこの杖をいつか使う時が来たら──とまるで優しい約束をするようにイリシオスへと微笑みかけてきた。
『いつか、別れは訪れるものだけれど……。それでも私は、私達は、どんな時もイリシオスの隣に立っていると思って欲しい。あなたが向き合う全てに、共に立ち向かうと思い出して欲しい』
エイレーンは自分達の分身だと言うようにその杖をイリシオスへと託してきた。
不老不死であるイリシオスが全ての者を見送った後、決してこの世界に一人で取り残されないように。
だからだろうか、この杖を握った時、振り返らずとも分かる程に慣れてしまった懐かしい気配が自分の後ろから感じ取れた気がした。
共に旅をし、共に暮らし、共に分かち合ってきた大事な友人達の気配が。
ならば、背を曲げるわけにはいかないだろうとイリシオスは杖を握り直した。
「わしは魔女だ。たとえ愚者であろうとも、いかなる時も想像し、創造する魔女だ」
きっと、この時のために月桂樹の杖は作られたのだろう。
エイレーンには『夢魂結び』と呼ばれる力が備わっていた。
その力は過去だけでなく、未来も断片的に視ることが出来るようで、エイレーンは数百年後の今を見越して、「月桂樹の杖」を作っていたのだろう。
それは恐らく、イリシオスの役に立つと信じていたからだ。
「故に、魔法を発動させる道具さえあれば、どうとでも出来る。わしがどれほどの年月を生きてきたと思っておる? 千年じゃぞ。……千年分の魔法の術式と知識がわしの中に入っておる。ならば、あとはどのように魔法を使うのかを『想像』するだけでいい」
イリシオスは感情を抑えたまま、ハオスを見据え、吐き捨てるように言った。
「たかが数百年程度を生きてきただけで思い上がるなよ、小童が」
イリシオスの挑発に反応するように、ハオスはそれまでとは違う顔付きになっていく。
今まで見下していた表情は少しだけ抑えられ、まるで未知のものと対峙しているような、そんな単純で分かりやすい反応が返ってくる。
「混沌を望む者よ。我らが守るべきものを踏みにじった行為、断じて許さぬ」
怒りを抑え込んだ声で、イリシオスは静かに発した。
「──お前はここで、わしが殺す」




