愚者が生まれた日
空中に浮かんでいたハオスは軽い音を立てながら、その場に着地する。
イリシオスとの距離はおよそ七、八メートルほどだ。間合いを詰めるのが得意な者ならば、これほどの距離、一瞬で詰めてしまうだろう。
イリシオスは持っている杖で、こんっと床を鳴らす。
「ようこそ──と、皮肉でも言った方が良いか? ……『悪魔十二席』の第十一席、『混沌を望む者』よ」
「……へぇ」
イリシオスの言葉に、ハオスはどこか楽しげに反応する。
「いやぁ、驚いたな。今の時代、『席』のことを知っている奴はみーんな、死んだと思っていたぜ」
「いくら時代が過ぎようとも、人間には口伝、文献と様々な方法で情報を後世へと伝える術を持っておる。……ゆえに、お前が普通の悪戯好きの悪魔ではないことは知っておるよ」
人間を蔑み、茶化すような物言いをするハオスをイリシオスは冷めた瞳で見据えた。
『悪魔十二席』──。
悪魔という存在は遥か昔から存在しており、その都度、人間に甘言を囁いては破滅へと導いていた。
そんな悪魔の中には卓越した能力を持った悪魔が存在しており、最も力が強い者から順番に、十二体いるという。
彼らは最上位である「第一席」の悪魔によって、順位を位置付けされた「席」を与えられており、目の前にいるハオスは第十一席に座する者だ。
そして以前、アイリス達が封印し直した悪魔、メフィストフェレスは今でこそ席から落ちたものの、元々は第十二席という、末席を与えられた者でもあった。
ただし、この「悪魔十二席」と呼ばれている悪魔達の全てが、悪行に手を染めているというわけではない。
上位の席にいくほど、他者との関わりが希薄となる悪魔も多く、下位の悪魔は凶悪で狡賢い者達による席の争奪戦があるようで、入れ替わりが激しいと聞いている。
イリシオスも過去に、「悪魔十二席」の悪魔に何度か会ったことがあり、その際に「席」の存在を知った。
その時の悪魔は確かに「悪魔」だったが、この世の知識を収集したいという己の欲に忠実なだけで、人間を害する意思を持っていない珍しい悪魔だった。
そして、彼らとは意思疎通が出来るものの、「契約」をするには多くの代償が必要だった。
そのほとんどが契約者の「命」だが、上位の席の悪魔との契約ほど、代償は大きいらしい。
一般人を標的にする悪魔とは日々対立しているが、十二席の悪魔達に関しては刺激しないようにしつつも、常に警戒していた。
そして「席」の入れ替わりを常に把握するために最新の情報を仕入れるようにしている。
「しかし、お主が第十一席に座ったのはここ、百年程前だろう。それまでは別の悪魔がその席に座っておったはずじゃが……。──殺したか?」
イリシオスの問いかけに対し、ハオスは口を半月のように歪めていく。
その表情を見て、この悪魔もまた、自身の欲に忠実な性根をしているのだろうと察した。
「席に座れるほどの力を持ったお主が、ブリティオンのローレンス家に与するとは……いやはや意外と言う言葉では表しきれぬな」
「けっ。そんなことを軽々と言っていられるのはお前が、エレディテルがどんな人間で、どんな魔法使いなのか、知らないからだ」
ハオスは長すぎるローブの右腕の袖を口元に添えつつ、笑いを隠す。
「あいつは他とは比べものにならないほどの力を持っている。それこそ、本気を出せば国を乗っ取れるほど……いや、国を亡ぼせるほどの」
「……」
ハオスはイリシオスの反応を楽しんでいるのか、目を細めていた。
「なぁ、イリシオス。お前なら、分かるだろう? エレディテル・ローレンスは普通の魔法使いじゃない。己の望みを叶えるためなら、自分以外のことはどうでもいい、そんな奴だ」
ハオスは演説するようにそう言った。
「自己中心的な奴が、己の望みのために自分以外のものを犠牲にする──。……身に覚えはないか? お前の周りにそんな奴はいなかったか?」
彼の問いかけは、まるでイリシオスの過去を知っているようだった。
思わず、どくり、と胸の奥から濁ったものが身体全体に流れ始める。
忘れることはない。
忘れられない。
イリシオスがまだ、「ウィータ・ナル・アウロア・イリシオス」と名乗る前のこと。
今から、千年前のことだ。
かつて、イリシオスはとある国の王に仕えていた。
権力も富も、強さも領土も、何もかもを手にしていた王は栄光という栄光を極めて、そして最後に──とあるものを望んだ。
それが、「不老不死」だった。
まだ十二歳程度の少女だったイリシオスは魔法に関して天賦の才能を持っており、魔法を生業とする一族の中で神童のように扱われていた。
あらゆる魔法の扱いに長け、小さな身体に収まっている魔法の知識は他の魔法使い達の追随を許さない程に深いものだった。
それでも、心の渇きが潤されることはなかった。
何故なら、イリシオスが扱えた魔法は、数は少ないものの、他にも扱える魔法使いはいたからだ。
だからこそ、誰も成し得たことがない「偉業」が欲しかったのだ。
歴史の一ページに名を残せるような、そんな──そんな、身の丈に合わないことを願ってしまった。
そして──仕えていた王のために、自身を犠牲にし、「不老不死」の魔法を発動させたのだ。
あの時、周囲からもてはやされていたイリシオスは、自分に出来ないことはないと思い上がっていたのだろう。
もちろん、「不老不死」の魔法を発動させる前に、正しく発動できるか何度も確認した。
だから、成功すると思っていた。
自分の命を犠牲にすることで、成り立つ魔法。
この命は失われるが、自分はきっと誰も得られないものを死んだ後に得られるのだ。
それでいいと──それだけでいいと思っていたのに。
魔法は、失敗した。
王が得られるはずの「不老不死」を得ていたのは、何故かイリシオスだった。
そして、周囲を囲むように魔法の発動を見守っていた者だけでなく、その国全ての人間がまるで魂だけを抜き取られたように死んでいたのだ。
そう、自分は魔法を履き違えていたのだ。
自分を犠牲にするのではなく、自分以外のものを犠牲にする魔法。魔法の発動者こそが、不老不死を得られる愚者だったのだ。
あの時、王の望みを叶えず、諫めておけば。
あの時、己の才能に慢心せず、発動させる魔法について研究を深めておけば。
あの時、果てなきものを求めなければ。
そうすれば、自分以外の多く人間を犠牲にすることなどなかったのに。
『──ああ、何と愚かなことか』
イリシオスはこの時、「己」に絶望したことで魔力を失った。
自己中心的な考えしか持っていなかったからこそ、全てを犠牲にし、何もかもを失うことになったのだ。
そして、自分に残ったのは永遠と言えるほどの命と果てしない孤独だった。
発狂しなかったのは、幸いと呼ぶべきか分からない。何もかもを失ったあの日から始まったのは、行く当てのない長い旅路だった。
「太陽と生ける愚者」という名は、大層なものではない。
ただ、己が愚か者であることを忘れないように、戒めるために名付けただけだ。
だからこそ、自分のことしか考えず、己の望みのために周囲を犠牲にするような「愚者」がいると、同族嫌悪してしまうのだろう。
……吐き気がする。
目の前のハオスだけでなく、会ったことは無いエレディテル・ローレンスも自分が最も嫌悪する分類の人間だ。
……同族だからこそ、どのような過程でわしが「不老不死」を得たのか、理解している……といったところじゃろう。実際に見てもいないくせに分かったような口を利いて、本当に腹が立つ奴らじゃ。
ハオスからの先程の問いかけにイリシオスは答えず、ただじっと彼を見据えた。
その瞳の中に決して感情を交えたりしない。感情を出せば、相手に足元を掬われるからだ。
だからこそ、無表情のまま、ハオスへと視線を向けていた。




