意思の楔
遥かなる導きの塔の一階にある大広間にて、イリシオスはかつてエイレーン・ローレンスから託された月桂樹の杖を右手に構えつつ、時間が来るのを持っていた。
エイレーンからはもしもの際にと言って渡されていたがこの数百年間、杖を使うことはほとんどなかったというのに、何故か杖はイリシオスの小さな手にしっくりと馴染んでいた。
これから激しい戦いが待っていることを予想し、塔の内部には衝撃に耐えられるように防御魔法がかけてある。
それでも、その防御魔法もどれほど、保ってくれるかは分からない。
出来るならば、悪魔「混沌を望む者」とは早めに決着をつけたいところだ。
でなければ、教団内と市街地、そして王宮内にて待機してくれている団員達に負担がかかるだろう。
……しかし、悪魔は禁術である方法を使い、ブリティオン王国の魔法使いから魔力を供給され続けておる……。その魔力量はこちらが思っているよりも膨大じゃろう……。
たとえ、ブリティオン王国の魔法使い達の意思によるものではないとしても、悪魔にとっての魔力供給源になっている以上、これから始まる戦いが簡単に終わるものではないと分かっていた。
相手はただの悪魔というわけではない。魔法使い──百人分以上の力を持っているはずだ。
それを一度に戦わなければならないとなると、並大抵の魔法使いでは到底及ばないだろう。
だが、この条件に当てはまり、腕が立つ魔法使いは数人ほどいる。それでも、彼らには我が儘を聞いてもらった。
「太陽と生ける愚者」と呼ばれた自分が、この千年の中で見つけ、手にした大事なもの──。
自分が見届けたかったもの、守りたかったものを存続させていくために弟子達にはとある「お願い」をしていた。
きっと、本音ではこの願いを聞くのは嫌だっただろうに、彼らは二つ返事で頷いてくれた。
イリシオスの意思を尊重してくれたのだ。
……迷惑をかけることになるが頼んだぞ、我が弟子達よ……。
今頃、それぞれの待機場所で時間が来るのを待っているのだろう。
彼らならば、きっと自分が頼んだことを成し遂げてくれるはずだと信頼している。
──いや、これは楔なのかもしれない。
彼らに自分の意思を打ち込むための呪いとも呼ぶべきものになってしまうのだろう。
ふぅ、と深い息を吐き出す。緊張はしていない。
ただ、やるべきことを成し遂げるまでは死ぬわけにはいかないと、その覚悟を胸に抱きつつ、この場所に真っ直ぐ立っている。
「……さぁ、来い。混沌を望む者よ。守るべき者、守るべき地を勝手に踏み荒らしたことを後悔させてやろう」
杖を強く握り直した時だった。
時計塔が、夜の十二時を示す音を鳴らし始める。
何度も聞き慣れた音だというのに、今日だけは別物に聞こえた。
──悪魔が指定した時刻。
それを認識した瞬間、まるで静電気が全身に駆け巡ったような感覚が襲った。
ばちばちと、目の前の空間に小さな火花が走っていく。
やがて空間に亀裂が入り、不穏な音を立てながら出現したのは、緑色に淡く光る魔法陣だった。
……わざわざ教団の敷地内に、転移場所を設定していくとは小癪な奴め。
最初に教団を襲撃して侵入した際に、混沌を望む者は教団内にいつでも転移出来るようにと、複数の場所に転移設定地を残していっていたようだ。
いくつかの設定地は魔法で潰したが、それでも巧妙に隠していたのか、彼は転移魔法によって再び教団の地に足を着けた。
……「悪魔」と顔を合わせるのは久方ぶりじゃの。
これまでの人生、悪魔と会ったことは何度かある。
力が弱い者から強い者までと様々だが、今回のように人間の世界に根深く干渉してくる悪魔は久しぶりだった。
ゆっくりと魔法陣から浮かんできた人間にも見える姿をイリシオスは睨むように見据えた。
長い黒髪をうなじ辺りにまとめたものが、羽のように二つに分かれている。
着ている服はローブと言えば聞こえはいいかもしれないが、身体の大きさに合っておらず、襟元が大きく開かれていた。
そして、服の下から見えるのは不健康そうな色の素肌だ。
その姿はまるで穢れを知らない少女のようにも見えた。
……人間の身体を依り代にして、この世に留まっておるのか……。
悪魔は基本的には「精神体」と呼ばれる存在だ。
何かに寄生しなければ、留まるための力を得られない。
例えば以前、アイリス達が対峙したと報告を受けている「光を愛さない者」は「悪魔の紅い瞳」という石に封じられていたが、活動時にはそれを依り代としつつ持ち主に寄生していたのだろう。
悪魔と契約をする以上は依り代を用意しなければならないが、それは契約者本人だったり、動物だったりと様々だ。
……しかし、こやつは違う。
イリシオスはすっと目を細めつつ、ハオスの額に刻まれている紋様を睨んだ。
あれは恐らく、契約者が悪魔と契約を結んだ際に刻んだ「契約紋」だ。
契約紋は契約者ごとに違う紋様になっているため、ハオスの額に刻まれている紋様は「エレディテル・ローレンス」が編み出したものだろう。
だが、イリシオスは目の前の悪魔を見て、吐き気がするほど嫌悪を抱いていた。
この悪魔は「人間の少女」そのものを依り代にしている。
生死は分からないが、契約時の「入れ物」にした以上、この身体の持ち主である少女の魂はすでに取り込まれたか、消滅しているのかもしれない。
……だからこそ、奴は簡単に転移魔法が使えるのじゃろう。
教団の中に、生身の魔法使いで転移魔法を使いこなせる者はいない。
術式などは研究されてはいるものの、生物を別の場所へと転移させるには使用時に身体への負荷がかかり過ぎるからだ。
特に「魂」を所有しているものほど、その負荷はかかりやすい。
ゆえに、実験による転移先では実験体として扱った動物の身体が欠損している場合などがあり、とてもではないが生身の人間が使える代物ではなかった。
イリシオスはもう一度、悪魔の身体をじっと見つめてみる。
恐ろしいほどの白い肌は、全く生気が宿っていない死体と同じ色にしか見えなかった。
少女の身体はただの入れ物で、悪魔の精神体が張り付いている状態だからこそ、痛みが伴いにくく、身体のどこかが欠損したとしても部分的なすげ替えが利くのだろう。
それでも、死者への冒涜だと思った。
いや、死者だけではない。彼は人間全てを価値あるものと認識していないのだ。
悪魔らしいと言えば、悪魔らしいのかもしれない。
だが、イリシオスにとっては、目の前の悪魔は不快感を与えてくる存在にしか思えなかった。
「──よぅ、千年の魔女。……いや、人間名で呼んだ方がいいか? ウィータ・ナル・アウロア・イリシオス総帥」
まるで友人に気軽に挨拶するような口調で、混沌を望む者──ハオスは、イリシオスへと声をかけてくる。
その声は只々、耳障りな音にしか聞こえなかった。
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