自惚れ者の虚無
嘆きの夜明け団、本部の建物の屋上に一つの影が立っていた。
教団に三人だけしかいない「黒杖司」という、役職を担っているにもかかわらず一年中、教団の外を飛び回っては強い魔物を積極的に討伐している変人──と、自分は教団の者達から呼ばれているらしい。
変人こと、ベルド・スティアートは久々に戻ってきた教団の景色を眺めていた。
入団してから、五十年近い月日が経っているが、その瞳に映る景色はあまり変わらない。
だが先日と昨夜、魔物の襲撃によって建物が損傷を受けている箇所もところどころ見受けられ、修復するのに時間がかかるだろう。
「……こんなことになるなら、もう少し早めに帰還すれば良かったかもな」
そんなことを呟いても、もう遅いと分かっている。
だが、誰だって今回の件で後悔を抱いているはずだ。
嘆いて、後悔しても進まない。
ならば、前を見据えるしかない。──教団の団員達は、切り替えが早いゆえに、次の襲撃に備えた行動も早かった。
だからこそ、たった一日で反撃するための準備を整えることが出来た。そこには多くの団員達の努力が含まれているのだろう。
それをどこか眩しくも誇らしく思ってしまう自分がいた。
出遅れた自分は昨夜の分も働いてみせるつもりだ。
六十を過ぎている身体だが、それでも現役の魔物討伐を専門とする団員に引けを取らない、むしろベルド以上に強い剣士は教団には存在していなかった。
たまに教団に戻ってきては、稽古をつけて欲しいと頼んでくる団員の相手をすることもあるが、誰もベルドの手から剣を落とすことも、膝を折ることも出来ない。
それでも発展途上の剣士はたくさんいるので、彼らがこれからもっと強くなっていくのを見るのが楽しみでもあった。
そんなことを思いつつ、ベルドは目を細める。
「……随分と静かな夜になっちまったな」
ふぅっと息を吐き出せば、煙草の煙が空へと上っていく。
そして、嫌というほどに目立つ時計塔に視線を向けた。
時計塔の針がまた少し、動く。
懐に入れておいた携帯の小柄の灰皿を取り出し、咥えていた煙草の火を消したものを押し付けるように仕舞ってから、懐へと戻した。
あの時計の針が夜の十二時に差し掛かった瞬間、長い夜が始まるのだろう。
「──おっと、もう一度、確認しておくか」
己の腰に下げられている双剣と予備の短剣、靴の裏に仕込んでいる魔符、そして特殊な防御魔法がかけられたコートに不備な点がないかを確かめていく。
大事なことの前には、しっかりと身の回りのことを確認しておくように、と耳が痛くなるほど言ってきたのは、自分にとっての唯一の師であるイリシオスだ。
普段は大雑把かつ豪快で、細かいことはあまり気にしないベルドだが、イリシオスに諭されたことだけは今も忠実に守っている。
……青臭かった頃のわしが今ではすっかり丸くなったと知れば、顎を外すだろうな。
心の中で苦笑し、ベルドは生温い風を浴びるように短い前髪を揺らした。
ベルド・スティアートがまだ、当主になる前──十代だった頃。
それは今でこそ、例えるならば「黒歴史」と呼ぶに相応しい時期だったと言える。
ベルドと付き合いが長く、性格を知っている者からすれば、酒の肴にしやすい若気の至りとも言える笑い話だ。
……だが、あの時の選択を後悔したことはない。
それはかつて剣の天才だの、神童などと呼ばれていた時。自分がまだ、「負け」を知らない若くて青かった頃──。
今ならばはっきりと言える。
あの頃の自分は、己という存在全てにただ自惚れていただけなのだと。
普段は昔のことなど思い返す趣味はないというのに、今日に限って思い出してしまうなんて、とベルドは自嘲するような笑みを浮かべてしまう。
教団に入団したばかりの頃──いや、入団する前からベルドは大人の魔法使いだけでなく、自分に剣術を教えた親でさえも圧倒するほどの強さを持っていた。
思い返してみれば、あの頃の自分はかなり傲慢だったように思える。何故ならば、自分以外の人間は全て弱いと勝手に決めつけて無意識に見下していたからだ。
それなのに誰でも良いから自分を越えてくれと、心の中で嘆いている己もいて、不安定さに拍車がかかっていた。
スティアート家は昔から魔法使いの名家だ。そして、ラミナの名を継承することを許された一族ゆえに、魔法だけでなく剣術を得意とする者が多く誕生する家でもあった。
当主の子として生まれたベルドは幼少期から剣術の才能を持っており、稽古をつけてくれた親さえも八歳の頃には越えてしまっていた。
やがて、周囲から剣の天才と称されるのに、時間はかからなかった。
その噂を聞いて、自身よりも年上の者が挑んでくることが頻繁にあったが、ベルドの剣術に最後まで堪え切れる者は現れなかった。
いつの間にかベルドは無心のまま剣を振って、人を傷付け、ただ戦うことしか出来ない存在になりつつあった。
戦いが好きだったわけでも、気持ち良さを感じるわけでもない。
自分が強過ぎるゆえに、最初は感じていた緊張感や爽快感は次第に薄れていく。
以前は自分が少しずつ強くなっていると実感すれば、嬉しさや気持ち良さを感じた。
だが、いつからだろうか、戦闘で勝利しても抱いた虚無感を別の何かで埋めることが出来なくなったのは。
苦しい、けれど自分の息苦しさを理解出来る人など周囲にはいなかった。
言ったところで、相手からしてみれば嫌みにしか聞こえないのだろう。
自分には剣しか、ないのに。
剣しかないから、それを極めるしかない。
誰かにとっての「天才」でいるしか、価値がないのに。
それなのに──どうして、ここまで胸が苦しくて仕方がないのだろうか。
どうして、こんなに空しいのだろうか。
誰か、何か、自分に与えてくれ。でなければ、存在出来なくなる。
自分が、「ベルド・スティアート」でいられなくなる──。
まるで底無し沼に足を踏み入れ、ずぼずぼと沈んでいくように動けなくなっていた。
そんな時だった。
あの人が自分の目の前に現れたのは。
──お主の剣筋は迷いがないほどに真っ直ぐだというのに、どうやら心に淀みを抱えているようじゃな。
とても小さな人だった。
それこそ自分が本気にならずとも、その身体を一瞬で半分に割ることが簡単なほどに、小さな身体を持った少女は静かに言い放った。
──そのままではいつか、お主……壊れてしまうぞ。
見知らぬ彼女が呟いたその一言に、今まで抱いたことのない醜い感情が胸の奥底に生まれた気がした。
どろどろとした感情が一気に頭へと上り、熱くなった血液が身体中に駆け巡っていく。
ベルドは金髪の少女の胸倉を掴み、お前に何が分かるんだと吐き捨てた。
ただの八つ当たりだと分かっている。
分かっているが、内側から外に出さないと自分が保てない気がした。
自分よりも小さな少女の胸倉を掴む、という乱暴をしたにもかかわらず、彼女は慈しむような瞳で自分を見てきた。
生まれて初めて向けられた穏やかで優しい視線を受けて、ベルドはたじろいでしまう。
やがて少女は何かを心に決めたのか、小さく頷いた。
──よし、ベルド・スティアート。わしと勝負をしてみぬか。
少し古風な口調の少女の提案に、ベルドは瞳を丸くしてしまう。
これまで、自分と剣を交えたいと言って挑戦してきた者はたくさんいたが、そのほとんどがベルドの圧倒的強さに屈しては、恐れるような瞳を向けていた。
だが、目の前の少女はそれまでの挑戦者達とはどこか違うように感じた。
今まではベルドを越えて、新たな名声を得ることを目的とした者達ばかりだったが、この少女は違う。
だからこそ、その純粋過ぎる瞳に宿された「理由」を悟ることは出来なかった。
得体の知れないものを見たような心地になったベルドは珍しく、唾を飲み込み、彼女の胸倉を掴んでいた手をいつの間にか放していた。
そして、初めて知ったのだ。
彼女が教団の総帥であり、不老不死の魔女であるウィータ・ナル・アウロア・イリシオスであることを。