黒杖司の願い
「不老不死」の魔法が実際に存在し、証明出来るのだと驚いている自分の目の前でイリシオスはどこか悲しげに笑った。
──不可能を可能にするために人は力を費やせるものじゃ。そこには果てしない努力が刻まれておる。……しかし決して、力の使い方を間違ってはならぬ。一歩でも間違えてしまえば、誰かを傷付けてしまう要因へと堕ちてしまう。
まるで彼女自身が昔、そうしてしまったように、イリシオスの声色がほんの少しだけ暗かったのをはっきりと覚えている。
しかし、彼女が抱える想いや過去について問いかけることなど出来なかった。
そうしてしまえば、きっとイリシオスは何事もなかったふりをしつつ、答えると思ったからだ。
イリシオスを傷付けたくはなかったハロルドは無言を貫き、そのまま彼女の言葉を聞き入った。
──ハロルド、そなたは賢い。こうやって学び進めていけば、偉大な魔法使いになれるじゃろう。だが、「一人」の世界に閉じこもりすぎてはならぬ。一人は偏りを生んでしまう。自分が全て正しいと思い込んでしまう。
そんなことを言われるとは思わず、ハロルドは顔をくしゃりと歪めてしまう。「今」の自分のやり方を否定されたように感じたからだ。
すると彼女は首を横に小さく振ってから、聖母のように美しく、優しく微笑んだ。
──だから、人は世界の広さを学ぶのじゃよ。自分に足りないものを補うために。そして、自分が持っている世界を少しずつ広げていくのじゃ。そうすれば、「不可能」だったことも「可能」へと一歩ずつ近づいていく。……叡智の最果てに辿り着きたいならば、まずはその一歩を踏み出してはみないか。
そう言って、イリシオスは自分へと右手を伸ばした。
その手に向けて「何故」、と問いかければ、彼女はふにゃりと少女らしい笑みを見せた。
子どもが、夢を持っているままの純粋な笑みを。
イリシオスはハロルドが失いかけていたものを指し示してくれたように感じたのだ。
──お主が辿る道の行く末をわしがただ、見てみたいだけじゃ。
思わず、胸の奥が締め付けられたような感覚に囚われた。
ああ、彼女は自分を信じてくれているのだ。
どのような極致を得ようとも、ハロルド自身が人としての道を踏み外したりはしないと、信じてくれている。
それがどれほど嬉しかったか、きっと彼女は知らないだろう。
向けられる純粋な想いが、願いが、夢が、何もかもが心地よくて、そして初めてで、泣きそうな程に心が満たされていった瞬間を。
ならば、自分は世界を広げてみせようではないか。
押し付けられたわけではない。
ただ、信じてくれているならば、自分がこれほどの魔法使いになったのだと、イリシオスに見てもらおうではないか。
ハロルドはイリシオスの手を取った。
その手は自分のものよりも小さくて柔らかいのに、どうしようもなく頼り甲斐のあるものだった。
この日から、ハロルドは変わった。
自分の好きなことだけを突き詰めることはもちろん、他の魔法使いとも多少だが交流を深め始めた。
自分の考えが他人からどのように思われているのかを確認し、正しい方へと修正していく。
そして、研究していることに助言をもらうこともあれば、自分が知っている知識を相手に伝えることもあった。
そうやって互いに補い合えば、いつの間にか気楽に言葉を交わせる友のような存在も出来た。
エルベート家の屋敷に居た時ならば、想像出来なかっただろう。実りがあり、充実した日々が存在していることを。
だからこそ、「時間」が足りないと毎日のように感じた。
時折、イリシオスと会った時には今はどのような魔法を編み出している、こんな研究をしたなどと報告した。
そのたびに彼女は優しげな笑みを浮かべ、嬉しそうに笑い返してくれた。
彼女はいつだって、自分を認めてくれていたのだ。
最初から、最期まで。
だからこそ、イリシオスが自分に託したことを嬉しく思うし、絶対に果たさなければと強く思うのだ。
……先生。わしはあなたに受けた恩を少しでも返すことが出来ただろうか……。
一人きりの世界に籠っていた時、穏やかにそして頼もしげに手を伸ばして、「世界を見よ」と言ってくれた彼女の姿はいつだって、ただ眩しかった。
彼女の身が禁忌の存在、証明されてはいけない結晶だとしても。
それでもただ、自分はイリシオスに「頑張ったな」と褒められるのが、どうしようもなく好きで、嬉しかった。
それだけだったのだ。
ハロルドは夜空へと視線を向ける。
とても美しい月夜だが、この穏やかさもあと少しで壊されるのだろう。
……さて、気合を入れ直して、結界を張るか。
結界魔法を使うにおいて、教団内ではハロルドの右に出る者はいない。
黒杖司は、それぞれ得意とする分野を持っている。
アレクシアが対人魔法、ベルドが剣術、そしてハロルドは結界魔法に長けている。
だが、油断はしてはならないだろう。王宮を囲うように結界を張ったとしても、内部に魔物が出現すれば意味はない。
その場合は魔物討伐課の団員に討伐してもらうことになるが、王宮内には教団や魔物の存在を知らない一般人も勤めているため、見られた後の対処もしなければならない。
何も知らない一般人はきっと今夜、何が起きるのか分からないし、覚えていない。
だが、それでいい。
何も知らなくていいし、覚えていなくていい。
教団という存在は、誰かに見返りを求めるための存在ではないからだ。
毎日訪れる闇夜を見据えては、静かに人々を守る。
教団が始まってから数百年、人に認識されることなく、影ながら国を支える存在として生まれたのだから。
ハロルドは黒杖司だけが持つことを許される黒杖を握る手に力をこめた。
独りよがりだった変わり者はもう、ここにはいない。
あの頃の自分から、変わることが出来ずにいたならば、きっと今の自分は存在していなかっただろう。
この力、研究、全ては、きっと「この瞬間」のために培われたものだと言ってもいい。
自分を導いてくれたイリシオスに全てを返すために。
イリシオスが望むものを果たすために、力になれるならば、何という本望か。
ハロルドは口をきつく結び直す。
かつて、「一人」の世界に籠り切りだった少年は、本ではなく黒杖を握りしめ、他者を守り切るために前だけを見据えていた。