黒杖司の誓い
時計台に吹き付けるようにぶわりと強い風が通り過ぎ、アレクシアは教団がある方向へと視線を向ける。
不可視の魔法が教団全体にかけられているため、ここからでは高い塀に囲まれている姿しか見えない。
外から見れば、隠れ蓑である「サン・リオール教会」の白い壁しか見えないようになっている。
それ故に、自分の師であるイリシオスが住んでいた塔を見ることは出来なかった。
イリシオスは過去の出来事によって魔力を失っているため、魔法を使うことは出来ない。
だが、彼女は人を導く魔女だ。
自分にとっては正しい道でも、誰かにとっては正しくはないかもしれない。
それでもイリシオスは本人のありのままを認め、底に眠るものを呼び覚まし、力を伸ばし、導いていてくれる魔女なのだ。
彼女はそうやって、アレクシアだけでなく、教団に属する力ある魔法使い達を育ててきた。
だからこそ──簡単な言葉で表せば、恩があると言うべきだろう。
イリシオス本人からしてみれば、そんな気はないのかもしれない。自分達は彼女にとって、長い人生のほんの一部にしか過ぎないのかもしれない。
けれど、アレクシアにとってイリシオスは恩人なのだ。
それなのに──。
……私は、先生を──。
その先の言葉が続かず、アレクシアは唇を強く噛んだ。
頭では分かっているのだ。イリシオスがこれから行おうとしていることが最も犠牲が少ない最善の方法であると。
それでも己の感情だけは、追いついてはくれない。
何故なら、自分はまだイリシオスに礼を言っていないからだ。きっと、何度、言葉を告げたとしても足りないと思ってしまうのだろう。
アレクシアは誰にも気付かれないように、小さく顔を顰める。
ああ、駄目だ。
心の中のどこかで、イリシオスの存在を求めてしまう自分がいる。
まるで、何も出来なかった小さな子どもだった頃のように、イリシオスを頼りたいと思ってしまう自分がいるのだ。
そんな弱音をかき消すように、アレクシアは表情を引き締める。
……真っ直ぐ立つ。そして、今度は私が……。
誰かにとっての導く者になれるように、真っ直ぐ立たなければならないのだ。
今の自分は、泣き言を言っていい立場ではない。
自分は「黒杖司」。この杖は柱だ。
自分が支えてもらっていたように、今度は自分が誰かを支える存在にならなければならない。
背を真っ直ぐ伸ばし、そして外套の下から懐中時計を取り出す。
古いものだが、それでも今も正確な時を刻み続ける時計はもうすぐ、指定の時刻へと迫っていた。
「──準備を」
静かに、だが厳かに呟いたアレクシアの言葉に従うようにその場で待機していた団員達が魔具の準備をし始める。
これからアレクシアと魔的審査課の団員達が行うのはかなり大規模な対人魔法だ。
その内容はロディアート市街に住まう全ての住民に眠りを与えるものである。
アレクシアが立っている時計台を中心とし、各地で待機している団員達と協力しながら行うもので、一斉に睡眠魔法を発動させるのだ。
今夜、教団の団員達と悪魔「混沌を望む者」が召喚した魔物達との交戦が街中で行われることになるのだろう。
一般人にとってはかなり危険であるし、何より教団の存在は一般人には秘匿にされているため、魔物と戦っているところや魔法を使っているところを見られるわけにはいかない。
また、現在は国王陛下から勅命が下ったことでほとんどの住民達が自宅へと帰っていると思われるが、勅命に従わずに外を出歩く者も多数はいるはずだ。
それ故に念には念を入れて、眠りの魔法をロディアート市街全域にかけて、住民全てを眠らせることにしたのだ。
街中で眠りに陥ったものは教団の団員の手で安全な場所へと避難させられる手筈となっている。
もちろん、対人魔法であるため、その魔法の威力は教団の魔法使いにも及ぶものだ。
なので、市街で戦闘を行う予定の団員達にはすでに睡眠魔法を弾き返す魔具が支給されている。
悪魔の思い通りにさせないためには失敗は、許されない。
それぞれの手には、他人の命が握られていると言っても過言ではないだろう。
……これほどの緊張を味わうのはいつぶりだろうか。
少女だった頃は常に緊張しながら生きていた。
だが、自分自身を保てるようになって、自信がついてからは大きな緊張は抱かなくなった気がする。
昔に比べれば肝は太くなったのかもしれない。それでも今回は別物だ。
ふぅっと、深い息を数度吐いてから、アレクシアは黒杖を握っている右手に力を込め直した。
「……時間だ。始めるぞ」
アレクシアの声に、団員達は頷き返す。そして、団員の一人は手にしている水晶で、各地で待機している団員達へと連絡を取った。
アレクシアは黒杖を両手で握りしめ、魔力を注ぎ始める。
そして、声高に魔法の詠唱を告げた。
「──揺れる、揺れる、ゆりかごよ。その身体、その心、全て閉ざし、今、ひとたびの安らかな時間をかの者に与えたまえ。……揺れる、揺れる、ゆりかごよ。その身体、その心、全て閉ざし、今、ひとたびの安らかな時間をかの者に与えたまえ」
何度も、何度も詠唱を続けては媒体である魔具、黒杖へと魔力を注ぎ続ける。
そして、黒杖の底で時計台の床を叩くように鳴らせば、己が注いだ魔力は波紋のように一斉に広がっていった。
音が響くように、水面が揺れるように。アレクシアの魔力は反響を刻み、各地で待機している団員達のもとへと届く。
一度の詠唱だけではロディアート市街に住まう全ての住民達に眠りを持続させるのは難しいだろう。
だからこそ、アレクシアはここから動くことは出来ない。今夜が終わるまで、睡眠魔法を持続させなければならないからだ。
それは各地で待機している魔的審査課の団員達も同じだ。
広範囲で発動させるとなると、やはり効果が薄くなってしまうので仕方がないのだ。
それでも、絶対に止めることはない。
この魔法を止める時が来るとすれば、それは無事に夜明けが来る時か己の魔力が尽きる時だ。もちろん、魔力回復薬もすでに準備してある。
「皆の者、長い夜はすでに始まっている。気を引き締めていくように。だが、決して無理をするな。体調が悪くなった場合にはすぐに申告しなさい」
「はい」
アレクシアの言葉に、団員達は短く返事を返してから己の作業に集中する。
これから数時間、己との我慢比べが続くのだろう。
気が遠くなりそうだが、自分達の手には市民の安全が握られている。それだけではなく、他の団員達が動きやすくなることに繋がっている。
だからこそ、手を抜くわけにはいかないのだ。
「──揺れる、揺れる、ゆりかごよ。その身体、その心、全て閉ざし、今、ひとたびの安らかな時間をかの者に与えたまえ……」
アレクシアは何度も睡眠魔法の呪文を唱える。
対人魔法こそ、己が極めし魔法だ。
誰にも負けるわけにはいかない、それがたとえ自分だったとしても。
それでも──心の奥底にちらりとイリシオスの穏やかな表情が見え隠れして仕方がないのだ。
……分かっています、先生。私は……あなたの意思を否定したりなどしない。あなたが私を認めてくれたように。……たとえ、先生が望むものが私達にとって、悲しいものだとしても……。
ぐっと黒杖を握る手に力を込める。
──誇りを持て。己の魔法に。己の意思に。己の心に。
イリシオスに教えられた全てはこの身に宿っている。
だから、大丈夫だ。自分はきっと、受け継いでいける。
……あなたが望んだ未来を私は──守ります。守り続けると誓います。
魔法使いも魔力を持たない者も、誰もが幸せである世界を彼女は望んだ。
遥かなる塔の上から、長い年月、望み続けた。
イリシオスが、他者が幸せであることを望むならば、自分はそれを肯定する。
だから、今は──己の成すべきことに力を尽くすだけだ。
かつて、俯いていた少女は、白髪が混じった頭を俯くことなく、己が持つ黒杖のように真っ直ぐ、背を伸ばし続けた。
いつも読んで下さり、ありがとうございます。
大変申し訳ないのですが、私生活が忙しくなり、更新が不定期になりそうです。
時間がある時を見計らって、更新していこうと思いますので、どうぞ宜しくお願い致します。




