懇願の対象
「念のために、防音の結界を張るから、待っていてくれ」
そう言って、ブレアは右足の踵で、床を蹴るように三回叩いた。
瞬間、ブレアの魔力がその場に広がっていき、魔具調査課の部屋を覆っていく。
呪文も何も唱えていないが、この一瞬で防音の結界が張られたことが感じ取れた。
「……よし、それではさっそくだが、『今夜』についての話をさせてもらう」
ブレアの前まで歩き、クロイド達は一列に並んだ。
本当ならば、自分の隣にいるのは相棒であるアイリスのはずだ。しかし、彼女はここにはいない。
そのことをもう、何度実感しただろうか。クロイドは心の中に抱いた小さな苦しさを振り払うように、顔を上へと上げた。
「知っての通り、今夜十二時に悪魔『混沌を望む者』が教団へとやってくる。その際に奴は攻撃を仕掛けてくると思うが、恐らく大規模な戦闘になるだろう」
眼鏡の下で、ブレアは視線を鋭く光らせる。
「戦闘予定地はまず、教団。そして市街、王宮だ」
「一度に三か所での戦闘となると、人員を割り当てるのに苦労しそうですね……」
ブレアの言葉に、ナシルは難しいことを考えるような表情で小さく唸る。
「そうだな。……だが、状況に応じて、適切に対処出来る団員をそれぞれに配置させる予定だ。たとえば、王宮だと魔物に対処するために魔物討伐課の団員の他に、結界魔法が得意な祓魔課の団員とか、な」
「市街だと、やはり魔物討伐課が中心となるのでしょうか」
クロイドが訊ねれば、ブレアは力強く頷き返した。
「ああ。それと魔的審査課の人間も配置されるとのことだ。恐らく、避難出来ていない住民に対処するためだろう。彼らは対人魔法が得意だからな。そして我々、魔具調査課だが──」
ふっと息を吐いてから、ブレアは言葉を続ける。
「主に教団に残る非戦闘団員や怪我を負った者達の警護を任された」
「それじゃあ、本部周辺に待機しつつ、魔物達から団員を守ればいいということですね」
「そうだな」
「でも、教団内にも魔物が出現するならば、戦闘が出来る団員は残さないんですか?」
ナシルが首を傾げつつ訊ねれば、ブレアは苦いものを食べたような表情を浮かべた。
「教団内に出現するほとんどの魔物は私と……それと黒杖司であるベルド・スティアートが対処する予定だ」
「えっ、お二人で……!?」
驚きの声を上げるミカに対し、ブレアは苦々しい表情で頷いた。
「教団に残る団員は出来るだけ戦闘が行える少数精鋭にして、市街と王宮に手を回したいらしい。……まぁ、私だけでなく、あのくそ爺も魔物を討伐することには慣れているからな。二人もいれば、十分な戦力だろう」
忌々しそうにブレアは吐き捨てる。昼間に情報課で、ベルドとやり合っていたブレアだが、彼の話が出ると治まっていた怒りがこみ上げてしまうらしい。
それでも私情と現状をはっきりと分けているようだ。ブレアは一瞬で、「課長」の顔へと戻っていた。
「ライカは本部の非戦闘団員用に用意されている防御結界が張り巡らされた避難場所へと向かいなさい。決して、その場所から出ないように」
「……はい、分かりました」
不安を隠した表情でライカはすぐに頷き返す。
「ナシルとミカも出来るだけ、ライカのことを気にかけてやってくれ。恐らく、お前達が配置される場所は避難場所に近いだろうから」
「了解です」
「そして、クロイドは……」
ブレアの視線がクロイドへと注がれる。
「確か、黒筆司から個別に任されている件があるそうだな」
「……ええ」
どうやら、ブレアはクロイドが塔に結界を張る件について詳しくは知らないようだ。
つまり、イリシオスが悪魔と直接、対峙することは他の団員どころか課長達にも秘密にされているらしい。
……それも、そうだよな。簡単に言えば、この件はイリシオス総帥とハオスを塔に閉じ込めることになる。イリシオス総帥をいつも気にかけているブレアさんならば、絶対に反対するに違いない。
それでも──口に出すことは出来なかった。
イリシオスを危険にさらすことになるとブレアに伝えることは出来なかった。
どこかで、自分はイリシオスを利用し、アイリスを助けようとしているのではとそんな考えが頭に過ぎる。
気付いてしまった重く、苦しい現実に、クロイドは息をすることを忘れてしまいそうになった。
「クロイド?」
いつの間にか黙り込んでしまっていたクロイドを不審に思ったのか、ブレアが顔を覗き込むように名前を呼んだ。
はっと我に返ったクロイドは、すぐに誤魔化すように言葉を返す。
「すみません、少し考え事をしていました」
「いや、構わないよ。……しかし、お前が気負うほどのことを任されたんだろうな。……全く、ウェルクエントは『秘密』だと言っていたが、私の大事な部下を酷使するなと後で抗議しておかなければ」
ふんっ、と鼻を鳴らしつつブレアは腕を組む。
どうやら勘違いしているようだが、確かにウェルクエントに容赦なく鍛えられたのは間違いないだろう。
「とにかく、それぞれに任された件を全うしてくれ。何より……」
ブレアは一度、そこで言葉を切った。そして、その場にいる四人の顔をゆっくりと見渡していく。
「絶対に、死ぬな」
「っ……」
課長であるブレアから真っ直ぐ、だが切ない声が零れ落ちた。
「これはあくまでも私の予想だが今夜、教団と王宮、市街に放たれる魔物は昨晩のものよりも強いはずだ。たとえ、お前達が戦闘にある程度、慣れているとしても決して油断してはならない」
「……」
「怪我をすることもあるだろう。魔物に気後れして戦えないこともあるだろう。それでもいい。だが──絶対に、死ぬな。生き抜くことだけを考えて、夜を超えろ」
それは命令か、懇願か。
一体、どちらなのだろうか。
ただ分かるのは、ブレアの瞳には「失いたくはない」という強い感情が宿っていた。
いくつ分の呼吸が零れただろうか。
真っ先に返事を返したのは意外にもミカだった。
「──そんなの、当たり前じゃないですか」
その口調はいつもと変わらない、緩やかなものだった。
「ただでさえ、魔具調査課に所属している人数が少ないというのにこれ以上、減るつもりなんてないです」
鼻を鳴らしつつ、ミカは胸を張る。
「俺達は俺達で、自分に任せられた仕事をきっちりとこなすので、ブレア課長も無理しないようにして下さいよー?」
その時、ミカの言葉の中に隠されたものをクロイドは気付いてしまう。
死ぬなという言葉にはブレア自身も入っているのだと、ミカは暗に言っているのだ。
ブレアもそのことに気付いたようで、少しだけ強張っていた表情をふっと和らげる。
「……ああ、そうだな。その通りだ。……私も十分に気を付けるとするとしよう」
張り詰めた空気は先程とは変わらないが、それでも漂う緊張感は普段の任務前のものとそれほど変わらなくなっていた。
「よしっ、この件を無事に乗り切った際にはお祝いとして、魔具調査課内で宴でもやるか! 料理代も酒代も私が全部持ちするぞ!」
ブレアは拳を作った右手で、自身の胸をばんっと叩いた。
「おっ! さすが、ブレアさん! 太っ腹!」
「それなら、気合を入れなおさなくちゃいけないね」
先輩達もブレアにつられて、にやりと笑い返す。
ライカもどこか困ったように小さく笑っていた。
そんな光景を見て──ああ、これがいつもの魔具調査課だと、クロイドは心の奥底でどこか安堵した。
「──それでは、各々で準備が出来次第、与えられた任を全うするように」
まるで号令のように告げられた言葉に、それぞれ返事を返す。
己の心に内なるものを秘めつつ、それでも──もう一度、この魔具調査課へと戻ってくるために。
クロイド達は魔具調査課を後にした。