心揺らし
夕方の時間は終わりを告げ、やがて夜の時間へと移り変わっていく。
空はすっかり闇夜で染まっていた。そんな光景が窓の外に並んでいる。
戦闘を専門にする団員達は各自で休息を取ったりしながら、夜に備えているらしい。
また、教団の外に広がる街中では、国王により下された王命がすでに発令されており、住民たちは突然のことに戸惑いながらもその王命に従い、自宅へと帰宅し、籠っているらしい。
どうやら、ロディアート警視庁の上層部にもかけあってくれたようで警官達が、住民たちが混乱しないようにと落ち着きを持って、先導してくれているとのことだ。
教団の中は、相変わらず緊迫した雰囲気が漂ったままだ。
爆弾に繋がれた導火線のすぐそばに、火種となるものが燻っているような、そんな空気が流れたままである。
「……」
緊迫した中でも、クロイドの心は今、凪のように静かだった。一切、波打つことなく、ただ静かで、揺れることはない。
それはもしかすると、自分の心を最も揺らしてくれる人物が傍にいないからかもしれない。
脳裏に浮かぶのは、隣にはいない存在だ。
柔らかな金髪を風になびかせ、意志の強い空色の瞳が自分を見据える。
……ああ、そうか。隣にいることが当たり前になりすぎていたのかもしれない。本当ならば、それがどれほど尊くて、かけがえのないことだと分かっていたはずなのに。
昨日の今頃は、傍にいたというのに、たった一日──言葉を交わしていないだけで、まるで長い時間を共に過ごしていないような心地さえしてしまう。
体力と魔力を回復させたクロイドは、本部の医務室へと向かっていた。
医務室が置かれている棟は、相変わらずごった返しており、薬品と血の匂いが混ざったものが微かに鼻を掠めていく。
時折、唸るような声が聞こえたが、恐らく怪我を負った者達が痛みと戦っているのだろうと察せられた。
……今回の襲撃でかなりの団員が怪我を負ったが、命を落とした者がまだ出ていないのが幸いだな……。
だが今夜、さらなる襲撃によって命を落とす者が出るかもしれない。
恐らく、昨夜の比にならないほどの魔物が投入されるのだろうとクロイドは予想している。
そんなことを考えつつ、クロイドは目的の部屋へと入った。
そこは大人数を収容することが出来るとても広い病室だった。
ベッドがずらりと均一に並んでおり、そしてその上には眠ったように一切動くことがない団員達がいた。
ここに収容されている団員は全て、悪魔「混沌を望む者」の魔法によって魂を抜き取られた者達だ。
この病室では、薬品や血の匂いは全くしない。
だが、呼吸の音も脈拍も何も聞こえない。
……生きている音が、しない。
何も、ない。
ただ、聞こえるのはベッドの上で横になっている者に付き添っている団員のすすり泣く声だけだ。
「……」
クロイドは短く息を吐いてから、部屋の中へと入っていく。
いつもならば、自分の足音と一緒にもう一つ、足音が聞こえるはずなのに、聞こえない。
分かっていることなのに、それを自覚してしまえば、どうしようもなく寂しく思えた。
そして、一番奥に置かれているベッドへとクロイドは辿り着く。
「……アイリス」
ベッドの上で寝かされている最愛の存在に向けて、小さく名前を呼んだ。
名前を呼んでも、返事はもちろん返ってこないと分かっている。
ただ、呼びたいだけだ。
呼べば、もしかすると返事をしてくれるかもしれない。
そんな、淡くて空しい願いを密かに抱いていただけだ。──そんなこと、ありえないのに。
クロイドは悲しげに微笑を浮かべ、それから左手をアイリスの右頬へと添えた。
……ああ、こんなにも冷たいなんて。
まるで、生きていないようだと思ってしまう。
脈も心臓も呼吸も何もかもが止まっている。彼女は確かに生きていると再確認するための方法が分からなかった。
目の奥から何かがこみ上げてしまいそうだ。
アイリスだけだ。自分の心を揺らしてくれるのは。
初めて彼女に会った時から、アイリスは自分の心を揺らし続けてきてくれた。
先ほどまで、凪のような感情しか持っていなかったというのに、今はもう大きく揺れ動いて仕方がない。
心に浮かべている様々な感情をまとめることは出来ない。それほど複雑に渦巻いていると自覚出来た。
「……アイリス。君の魂が囚われている場所はどのようなところだろうか。暗くて、寂しい場所か? それとも、耐え難いほどに痛みを受ける場所だろうか……。どちらにしても、君をそのような場所に長居させたくはないな」
見下ろしているアイリスの表情は少しも動かない。人形のような美しさだけがそこにはある。
「すまない、アイリス。……本当ならば、ベッドの上にいるのは俺だったのだろう。だが、君はあの時──とっさに何かを判断した。……まるで、その先に起こることを知っていたように」
そう訊ねても、返事はない。
「君が俺を守ろうとしてくれたことは素直に嬉しいと思う。……けれどな、俺の身代わりのように君が犠牲になるのだけは……絶対に嫌なんだよ」
そのようなこと、自分は望んでいない。アイリスは時折、自己犠牲のような部分が表に出てくる場合がある。
今回、とっさにクロイドを助けた時も、自分のことを棚上げしての行動だったのだろう。
「もちろん、俺がアイリスのために命を投げ出すことを君が許さないことも分かっている。……ちゃんと、分かっているさ」
自分自身へと言い聞かせるようにクロイドは呟く。
「だから、待っていてくれ。俺は……自分に出来ることをして、君をきっと目覚めさせてみせる。君の温度を取り戻してみせる」
宣言するように、まるで誓いを立てるように、ベッドの上に放られていたアイリスの両手を自身の両手で包み込み、クロイドは真剣な表情で告げる。
冷たいままの手に、自分が持っている熱を与えるように強く握りしめる。
手を握る痛みで、アイリスが目覚めればいいのに──そんなことを思いつつ、ただ握り続けた。
どれくらいの時間、握っていただろうか。しばらくしてから、クロイドはアイリスの手をゆっくりとベッドの上に下ろした。
「……それじゃあ、行ってくる」
クロイドは最後に、アイリスの額へと小さな口付けを落とした。どうか、彼女が目覚めますようにと祈りを込めたものだ。
鼻を掠めるアイリスの匂いは、いつもよりも薄く感じられた。
生が遠のいていると、匂いまで薄くなってしまうらしい。
「……」
瞳に彼女の姿を焼き付けていく。動くことはない絵画のような姿だとしても、自分にとっては最愛のただ、唯一だ。
儚い姿を心に刻んで、そしてクロイドは背を向けた。
歩く足取りは軽くはない。肩に圧し掛かるものは軽くはない。
それでもこの歩みを止めることを自分は、自分に許していない。
改めて決意した面持ちで、クロイドは医務室から出て行った。




