黒筆司の頼み
エリオスとともに食堂で昼食を摂り終えたクロイドは、休息のために自室かもしくは魔具調査課の仮眠室に向かおうかと悩んでいたところで黒筆司のウェルクエントに声をかけられた。
「こんにちは。……いえ、お疲れ様と言った方が良いでしょうか」
まるで久しぶりにあった友人に向けた、気軽な挨拶のような口調だ。
ウェルクエントがわざわざ声をかけてきたことに対して、何かを抱いたのか、隣に立っているエリオスの瞳に僅かながらも警戒心のようなものが宿っていた。
そんなエリオスの心情を知っているのか、ウェルクエントはにこにこと笑いかけたまま、言葉を続ける。
「ああ、用事があるのはクロイドさんだけですよ。エリオスさんはどうぞ、休憩しに行って下さい。……恐らく、しばらくした後に全団員に向けて、総帥達から今夜に関する通達が行われると思いますので」
エリオスはクロイドとウェルクエントを交互に見てから、やがて小さな溜息を吐いた。
「分かった。……それではまたな、クロイド」
右手を軽く挙げてから、エリオスはクロイドに背を向け、その場から去っていく。
廊下に二人だけになったことを確認してから、ウェルクエントは再び、クロイドへと笑いかけた。
「さて、ここは人が行き来しますから、別の場所へと移りましょうか」
「……つまり、人には聞かせられない話があると?」
「そうですね。……何せ、教団の今後の行く末を決めることなので」
「……」
「それでは、こちらに付いて来てください」
ウェルクエントは何でも無さそうに飄々とした口調で言っているが、クロイドからしてみれば冷や汗ものだ。
一体、何を自分へと話すつもりなのだろうか。しかし、それをこの場で口にすることは出来ず、クロイドはウェルクエントの後ろを付いていくしかなかった。
ウェルクエントに案内されたのは教団の本部のとある一室だった。
まるで寮の一室のような狭さだが、少人数による会議に使われているのか、椅子が四脚と大きめの机が一台、置かれていた。
「お好きな席に座って下さい。……ああ、この部屋には防音魔法が常にかけられていますので、何を話しても大丈夫ですよ。それと、口調は崩して下さって構いませんので。別に上司や部下という関係ではありませんし」
それに同い年ですから、と言ってウェルクエントは苦笑する。
そうは言っても、彼と対峙すると妙な緊張を抱いてしまうのは何故だろうか。
それは恐らく、ウェルクエントに見据えられると心の内まで見抜かれてしまうような心地を抱いてしまうからかもしれない。
「……失礼する」
クロイドは密かに抱いた緊張感をウェルクエントに覚られないように、平静を装いながら椅子へと座った。
ウェルクエントはクロイドの真正面へと腰を下ろし、それからにこりと笑みを浮かべる。
「さて、クロイド・ソルモンドさん。直球で伝えさせて頂きますが、あなたにやって頂きたいことがあるんです」
「……俺に?」
思わず、身体が強張ってしまう。そんなクロイドを小さく笑ってから、ウェルクエントは言葉を続けた。
「入団当初に悪魔『光を愛さない者』をアイリスさんと共に封印し、そしてブリティオンのローレンス家に従っている悪魔『混沌を望む者』と対峙した際には攻撃を防ぐための結界を張るなど、あなたは悪魔に対処する術と力をお持ちだ」
「……」
「──対悪魔用の結界、あなたならば展開させることが出来るのではと思いまして」
「……それはつまり、俺に対悪魔用の結界を張れ、と言っているのだろうか」
ウェルクエントはわざとらしく肩を竦める。
結界魔法ならば、クロイドはいくつか取得済みだ。
だが、結界魔法が使えるからと言って、今のハオスに匹敵する力を自分は持っていない。
初めて対峙した時は恐らく、彼は手加減していたのだろう。それゆえに今回、襲撃してきた彼は今まで以上に本気の力で押してきている気がしてならなかった。
クロイドが即答を渋るように無言のまま、ウェルクエントへと見つめ返すと彼は困ったような笑みを浮かべて頷き返した。
「まぁ、簡潔に言えばそうですね。……ですが、簡単ではないんですよねぇ、これが」
肩を竦めてから、ウェルクエントは黒いローブの下から何かを取り出した。
取り出したのは手帳と万年筆だ。記憶したものを書き残すために持ち歩いているのかもしれない。
手帳を机の上に置いてから、空白のページを開き、彼は万年筆で何かを綴り始める。
「クロイドさんはイリシオス総帥が住んでいる塔の名称を知っていますか?」
「……いや、知らないな。普通に『塔』と呼んでいた」
むしろ、あの塔に名前などあったのかと今、知ったほどだ。
「まぁ、そうですよね。……名前が周知してしまえば、塔に施されている魔方式が見破られる可能性もありますからね。あの塔の名前を知っている者は教団の中でもごく僅かです。それこそ、暁闇の五家や黒杖司、黒筆司……。ああ、課長達の中には数人ほどですが、知っている人もいるでしょう。ですが、他の団員達にはまず、知られていません」
ウェルクエントはどうやら手帳の空白のページに「塔」の絵を描いているようだ。中々に上手い。
「『塔』──正式名称は『遥かなる導の塔』。それはかつて、エイレーン・ローレンスによって魔法を施され、創り上げられたものです」
エイレーン、という名前にクロイドは少しだけ反応してしまう。
「そして、今夜──。この塔に悪魔『混沌を望む者』が取引のためにやって来ます。他の団員は塔の中に入ってはならない、イリシオス総帥お一人で……というのが相手の要望ですね」
「……」
「ああ、ご心配なさらず。イリシオス総帥には悪魔を討つための手立てがあるようですから。……まぁ、どちらにせよ、我々は今晩、塔の中に入ることは難しいでしょうし」
クロイドはウェルクエントには見えないようにと机の下で拳をぎゅっと握りしめる。
ハオスは狡猾かつ残忍な性格をしている。恐らく、イリシオスが取引に応じないと分かった瞬間に、人質にしている者達へと一気に手を下すだろう。
……アイリス。
柔らかな金色の髪をなびかせつつ、空色の瞳が自分だけを捉え、そして優しげな表情を浮かべて彼女は自分へと笑いかける。
しかし、その光景は一瞬で霧散していった。
たった一人の最愛の人は人質に取られたまま、目を覚まさない。
このまま、ハオスによってかけられた魔法が解けることがなければ、アイリスはずっと──目を覚まさないのだろう。
彼女に触れた際のあの異様な冷たさが思い出され、クロイドは唇を強く噛んだ。
「そこでクロイドさんにとあるお役目をお願いしたいと思いまして」
クロイドの瞳が剣呑になりかけていたことを察しているのか、ウェルクエントは和やかな口調で言った。
その口調の中に含まれる思惑は決して生易しいものではないだろう。
「この遥かなる導の塔に結界を張って頂きたいのです。……自分の力を過信し、のこのことやって来る悪魔を塔の中へと閉じ込め、絶対に逃がさないための強固な結界を──ね?」
そう言って、ウェルクエントは感情が読み取れない笑みを浮かべた。