母なる笑み
イリシオスは口元に手を添えつつ、深い溜息を吐く。
「結界魔法が得意なハロルドは王宮の方に向かわせるとして……。さて、誰を配置するべきか……」
教団の中で最も結界魔法を得意とするハロルド・カデナ・エルベートには、薄いながらもローレンス家の血が入っている。
彼だけではない。暁闇の五家やラクーザ家、また教団を陰ながら支えてきてくれた名家には、わずかながらもローレンス家の血が入っているのだ。
それらは政略などではなく恋愛によって結ばれた婚姻によるものがほとんどだ。
だが、結界魔法を使うとなると、いくらローレンス家の血が入っていようとも、得手不得手があるだろう。人選は慎重にしなければならない。
唸るように悩んでいるとウェルクエントが右手を上げつつ、にこりと笑った。
「それならば、僕でいかがでしょうか。これでもラクーザ家には、ローレンス家の血が薄いながらも入っています。それに防御魔法も結界魔法も得意ですし、悪魔の生態についても理解はしていますよ」
黒筆司であるからこそ、ウェルクエントは祓魔課の団員並みに悪魔に詳しいのだろう。
彼の存在意義は、この教団に関わることを全て収集し、保管、そして管理することだ。
もちろん、己の趣味として情報を集めることも好きなのだろうが、黒筆司という役職は彼にとってはまさに天職と言ってもいいだろう。
「ふむ……。確かにお主ならば、適任じゃな。……しかし、一人で結界を張るのは難しいじゃろう。他は誰が適任なのか、目星はついておるのか?」
「ええ、一応は。……ですが、そうですね……。僕としてはこの方を一番に推薦したいと思います」
一体、誰が彼のお眼鏡に適ったのだろうか。頭の中で予想しようとしていると、ウェルクエントの口から出た人物に、イリシオスは目を見開くこととなる。
「──クロイド・ソルモンドを」
「……」
アレクシアがはっとしたように、息を飲み込んでいた。ベルドは納得するように頷いており、セドはほんの少しだけ瞳を細めていた。
「教団の中で誰が一番、『エイレーン』に近しいかを考えれば、それは恐らくアイリス・ローレンスでしょう」
ウェルクエントはわざとらしくセドを視線に捉えつつ、少しだけ意地の悪い笑みを浮かべていた。
本当に良い性格をしている。これでいて、アイリスやクロイドと同い年なので末恐ろしい限りだ。
「ですが、それはあくまでも『血筋』に限ります。エイレーンの直系であるアイリス・ローレンス以上に血筋に関して、エイレーンに近しい者はいないでしょう。それでも、エイレーンに近い魔法使いとしての素質はクロイド・ソルモンドが最も備えていると言っても過言ではありません」
ウェルクエントはクロイドがイグノラント王国の第一王子であったことを知っている。そして、王家の者にはエイレーンの血が流れていることを。
黒筆司だけでなく、黒杖司達もクロイドの素性を知っている。
課長達の中には「クロイド」が正式な手順を踏まずに教団に入ったことに関して、腹を立てている者もいるが賢い者はクロイドが何者なのか気付いているだろう。
恐らく、セドも気付いている者の一人だ。
「クロイド・ソルモンド自身はそのことに気付いていないでしょう。この世で誰よりもエイレーンに近い魔力の質を持っていることに。まぁ、魔力の量はエイレーンには及ばないでしょうが」
かつてエイレーンが創った魔具に触れたことがある故に、その魔力の質を知っているからこその発言だろう。
どこか面白そうにウェルクエントは笑っている。まるで、観察対象を見つけた時の表情と同じだ。
「そんな彼ならば、塔に対悪魔用の結界を張ることも可能だろうと思いまして。それにほら、確か彼が入団した当初、アイリス・ローレンスとともに悪魔を封印した件がありましたよね。クロイド・ソルモンドは万能型なので素質があると思うんですよねぇ」
「確かにそれはそうかもしれぬが……」
「別に僕とクロイド・ソルモンドの二人だけで結界を張るつもりはありませんよ? ……悪魔の力は魔法使い数百人分に匹敵するものでしょう。いくらイリシオス総帥が悪魔の相手をしているからと言って、二人だけでは結界を維持出来るわけがありません。なので、あと数人ほど、塔に結界を張る者を僕が選びたいと思います」
にこりと笑っているが恐らく、彼の中では誰を選ぶか決まっているのだろう。
あらゆる団員の情報を所持している彼ならば、誰にエイレーンの血が流れているのか分かりきったことなのかもしれない。
……だが、クロイドにこの役目を頼んだとして、彼は受け入れてくれるじゃろうか……。
この件、ただ結界を張るだけではない。悪魔の力とのせめぎ合いになるのは予想出来た。
そして、強固な結界を維持し続けるには集中力が必要となる。一瞬の心の歪みや緩みによって、結界が崩れることだってありえる。
……クロイドは果たして、アイリスの仇が目の前にいたとして、自制していられるか……。
彼の心に歪みを生んでしまわないか、それだけが心配だった。
しかし、脳裏に浮かぶのは力強い眼差しだった。黒曜石のような瞳が自分を真っすぐ見つめてくる。
その姿がかつての友人達に重なっていく気がして、イリシオスはふっと深い息を吐く。
……いや、無用な心配かもしれぬな。
アイリスと似ていて、クロイドの意思は一度決めたら強固なものとなる。誰にも折れない鋼のように。
ましてや、自分が行っていることがアイリスのために繋がるならば、軽率に首を突っ込み、悪魔に仇を成すようなことはしないだろう。
利となるものを瞬時に判断することが出来るはずだ。
首を小さく横に振ってから、イリシオスはウェルクエントの方へと向き直った。
「では、塔に結界を張る人員についてはお主に任せるぞ、黒筆司よ」
「ええ、お任せを」
彼が満足気に頷き返したのを確認してから、イリシオスはその場に座っている者達を見渡した。
そこに居るのは教え子ばかり。だが、彼らは自分が教えたことを吸収し、己の意思で考え、己の道を選び進んでいる者達ばかりだ。
たとえ、その道がどのようなものだったとしても、強い意思を持っている彼らが立派に育ったことをイリシオスは心から嬉しく思っていた。
そして、どうしようもないほどに眩しく──切なく思えた。
……うむ。もう、いいじゃろう。
イリシオスは気が抜けたような笑みを浮かべる。胸の奥には満たされたような心地があった。
彼らには総帥がいなくても、大丈夫だ。そんな確信があった。
いや、きっと、随分と前から自分の存在がなくても彼らは真っすぐ進んでいけるのだと分かっていた。
千年という月日を生き、そして導き手としての役目を己に課してきた。
それでも自分と接してきた者達を見守り続けたいと思っていたのはただの我が儘だ。
歳を取ることのない幼い容姿のままで永遠という牢獄に囚われたことを理由に、自分が彼らの行く末を見守りたかっただけなのだ。
心に浮かぶ寂しさのようなものを奥底へと押し込めて、イリシオスは慈愛に満ちた表情を浮かべる。
イリシオスの表情の変化に気付いた者は、どこかはっとしたように目を見開き、固まっていた。
もしかすると、これから告げることを感じ取っているのかもしれない。
「……今夜、わしがどうなるかは分からない。それ故に、今この場で告げたいと思う。……わしはお主たちを誇りに思っておるよ。辿る道は違えども、わしは──その行く末を見届けたかった」
「先生……っ」
発言から何かを覚ったアレクシアが悲痛な声を上げる。
真面目で自分にも他人にも厳しい彼女だったが、それでもイリシオスにとっては優しい心を持った「少女」だったことをはっきりと覚えている。
「……あんたが何を決めようが、わしはあんたの意思を尊重するぜ?」
いつもと変わらない口調でベルドはそう告げる。
昔から自由奔放だが、情に厚い性格だった彼は「少年」だった頃の面影をしっかりと残したままだ。
この場にはいないハロルドも、イリシオスが心に決めたことに反対はしないだろう。
一つのことにのめり込むほどの研究者肌で他人に対してあまり興味を持たない自由人だったが、それでもこんな自分をいつまでも魔法使いとして、そして人生の「師」として仰ぎ続けてくれた。
イリシオスは自分の近くに立っているセド・ウィリアムズへと視線を向ける。感情の色を失った彼は恐らく、イリシオスと同じことを考えているだろう。
だが、彼が決めたのならば、自分はそれを否定する気はない。彼の意思の強さは相変わらずだと分かっているからだ。
彼らの意思を、決意を、感情を。
その行く末を見届けたかった。
血を分けた親というものになったことはないが今、抱いている感情をたとえるならば、親心というものに似ているのかもしれない。
……大丈夫だ。わしが……いなくても、心配しなくても。彼らは己の意思で決めていける。進んでいける。導かなくても、彼らは──真っすぐ立ち続けることが出来る。
もしかすると、正しく導きたいなどと思っていたことさえ傲慢だったのかもしれない。
心の中で己が作り上げた親心に対して苦笑しつつ、イリシオスはゆっくりと席から立ち上がる。
「さて、わしは悪魔を迎え撃つために準備をせねばならぬから、もう行くぞ。この場で決まったことはすぐに団員達へと各自で報告し、夜に備え始めていてくれ。……今夜は長い夜になりそうじゃからのぅ」
この後、自分は「準備」をしなければならない。
久しぶりに本格的な「魔法」を使うとなるとそれなりに時間と道具が必要となるのだ。
ふと、気付けば耐えるような、惜しむような視線がイリシオスへと注がれていた。
恐らく、彼らと顔を合わせるのはこの瞬間が最後だろう。
だからこそ、イリシオスは笑う。
最上で、最高の笑みを我が子達へと送るために。彼らの行く道を祝福するために。
「──あとは頼んだぞ。夜明けの意思を継ぐ者達よ」
母が子を慈しむように。そんな笑みを浮かべて、イリシオスは彼らに背中を向けた。




