振り返る予感
「ベルドはこっちへ来い。黒杖司としての仕事をたくさん与えてやろう。魔物を討伐していたとは言え、今まで教団での仕事をさぼっておったのじゃから、文句は受け付けぬぞ」
イリシオスはベルドへと手招きしつつ、彼女がそれまで居た部屋の中に入るようにと促した。
どうやら、扉の向こう側の部屋には誰かいるようだ。数人分の気配が何となく、感じ取れた。
イリシオスに促されたベルドはやれやれと言わんばかりに肩を竦めてから、素直に扉の向こうへと歩いていった。
「ブレアは一度、仮眠でも取っておけ。お主、昨夜から満足に睡眠を取っておらぬのじゃろう?」
「それは……」
「お主が三日程、寝なくても丈夫な身体を持っているのは分かっておるが、心の疲れまではそう簡単に取り除けるものではない。これからわしらは会議があるがそこでの話し合いが終わり次第、課長達には会議で決まったことを伝達するつもりじゃ。それまでゆっくりと身体を休めておけ。……これは命令ではなく、わしからのお願いじゃ」
イリシオスに上目遣いでそう告げられてしまえば、先程まで怒りに満ちていたブレアの表情は戸惑っているようなものへとすぐさま変化した。
傍からみれば、身体の心配をしてもらって嬉しさ半分、自分の意地を通したい気持ちが半分、と言ったところだろう。
「う……」
「わしの可愛い弟子は放っておけば無理をしかねないからのぅ。出来れば、自身の身体をもっと大事にして欲しいのじゃが……」
「ぐ……」
「情報課にも仮眠室はあるじゃろう? そこを借りて、暫く眠って来ると良い。今夜は長くなるから、お主の万全の力が必要になるぞ」
頼りにしているぞと言わんばかりの表情でイリシオスが期待に満ちた瞳をブレアへと向ければ、彼女はぐっと何かを喉の奥へと流し込み、ごくりと飲み込んでいた。
「わ……分かりました」
「うむ、よろしい」
にこりとイリシオスが笑ったことで、やっとこの騒ぎが完結したのだと他の団員達は察したようだ。
ブレアはどこか惜しむような表情を浮かべつつも、その場から離れて行く。イリシオスに言われた通りに仮眠を取りに向かうのだろう。
師匠であるからなのか、それともイリシオス個人に対してなのか、彼女に対する時だけ、ブレアは素直になるようだ。
「さて、エリオス。そしてクロイドよ」
それまで成り行きを見守っていたクロイド達の方へと視線を向けてくるイリシオスに対して、思わず緊張してしまったのか、つい背筋が伸びてしまう。
「式魔で先に連絡を受けていたが、例の件……本当にご苦労じゃった。総帥として、そしてウィータ・ナル・イリシオス個人として橋を結んできてくれたことに礼を言わせてもらう」
「……」
イリシオスからの労うような言葉に、クロイド達は瞼を軽く伏せてから頭を下げる。
再びゆっくりと頭を上げれば、彼女はどこか申し訳なさそうな表情を浮かべていた。
そして、一歩だけクロイドに近づき、小さく呟く。
「……セドとはもう一度、話をしたいと思っておった。連れて来てくれたことを感謝する」
「……いえ」
そう言葉を返せば、イリシオスは苦笑するような表情を浮かべていた。
それから、潜めるような小声でイリシオスは言葉を呟く。
恐らく、耳を澄ませていてもミレットや他の団員達には聞こえていない程の小声なので、周囲から見ればイリシオスがクロイドへと秘密の話をしているようにしか見えないだろう。
「……セド。この場に居るならば付いて来い。お主に話がある」
「……」
イリシオスが言葉を発した後、空気が少しだけ動いたように感じられた。セドがその場から移動したのだろう。
イリシオスにはセドが見えていないはずだが、それでも彼が会議をする部屋へと入って行ったことを確認してから、彼女も後を付いて行くようにその場を離れていく。
会議室の扉が閉まってしまえば、それまで漂っていた緊張感はゆっくりと解かれていった。
方々からは安堵の溜息が漏れ出ているようだ。
中には情報課が所有している物に傷が付いていないか確認している者もいた。あれ程の乱闘が起きていたので、備品が傷付いていないか心配なのだろう。
「ふむ。では、俺達も会議が終わるまで休憩させてもらうか」
エリオスの言葉にミレットが何かを思い出したように、「あっ」と呟く。
「それならば食堂で昼食を摂ってからにして下さい。さっき、食堂の調理員の方に昼食を用意して欲しいって連絡しておいたので、そろそろ料理が出来上がっている頃だと思いますし」
そう言えば、先程ミレットが昼食を用意すると言っていたことを思い出し、クロイドは頷き返した。
「分かった。……昼食の後に少しだけ休ませてもらうから、何かあれば連絡を寄越してくれ」
「了解。……クロイド、しっかり休んできなさいよ? ……でないと、目覚めたアイリスに余計な心配をかけそうだもの」
ミレットが少しだけ困ったような表情でそう告げたため、クロイドは出来るだけ力強く頷いた。
相手の表情などに敏いアイリスのことだ。クロイドの顔色が悪かったならば、きっと心配してくるだろう。
出来るだけ、彼女には心配をかけたくはない。それ故にアイリスが目覚める際には万全の状態で、笑顔で「おはよう」と迎えたかった。
クロイドはエリオスと共に、その場を立ち去ろうとする。
しかし一瞬だけ、足が止まったのは何故だろうか。自分の視線は情報課の会議室の方へといつの間にか向いていた。
「クロイド?」
どうかしたのか、と言っているような表情でエリオスが訊ねてくる。クロイドは視線を前方へと戻してから、首を横に振った。
「いいえ、何も。……行きましょう」
後ろを振り返らないように気を付けながら、クロイドは再び歩き始める。
……何故だろうか。胸の奥に何かが詰まってしまうような妙な予感がする。
そのようなことを簡単に口にすることは出来ず、静かに唇を噤んだ。
自分は、自分に出来ることをやるだけだ。
それでも──それでも。
拒否をしたくても出来ない何かが待っているような気がしてならなかったのだ。




