接触禁止命令
「──そこまでじゃ!」
瞬間、幼い声がその場に響き渡り、それまで続けられていた激しい音を切り裂いた。
声がした方へと視線を向けて見れば、情報課のとある一室の扉が開いており、そこには険しい表情を浮かべているイリシオスが居た。
彼女は自身の身長程の木製の杖を使い、床を叩くようにしながら音を立てる。
まるで水面に波紋を生んでいくような透き通る音に、それまで戦闘を行っていたブレア達の剣戟はやっと止まった。
イリシオスは騒ぎの中心であるブレア達をじっと睨むように見つめつつ、溜息を吐き出す。
「全く……。教団へと帰って来るならば、何かしらの連絡を寄越せといつも言っておるじゃろう、ベルドよ。お主は本当に唐突な奴じゃな……」
呆れたような口調で呟きつつ、イリシオスは杖を持っていない方の手で、こめかみを押さえている。もしかすると、この騒ぎによって彼女は頭が痛くなっているのかもしれない。
「久しぶりだな、イリシオス総帥。……いやぁ、突然、帰った方が可愛い孫の反応が更に面白くなると思ってな!」
ベルドはブレアに向けていた双剣を鞘へと素早く仕舞い、その柄をぽんぽんっと軽く叩きながら笑い返す。
歳はイリシオスの方が上だというのに、まるで昔からの知人のような気安さで二人は話し始める。
視界の端に映っているブレアが「この男の首を掻き切る良い機会だったのに」と呟いていたが、その発言は恐らくベルドにも聞こえているだろう。
彼女の殺気は分かりやすいくらいに漏れ出ていた。余程、怒りで満ちているらしい。
ベルドの返事に対して、イリシオスは数度目となる溜息を吐き出しつつ、恨みがましそうに目を細めた。
「お主のそういうところがブレアを苛立たせておるというのに……。数年ぶりに会っても相変わらずじゃのぅ。いい加減にその性格を直さなければ、本当にブレアに寝首を掻かれるぞ」
「ははっ。こいつはまだまだ甘い部分があるからなぁ。それに嫌いな奴を相手にするならば、一撃で仕留めるよりもじわじわといたぶる様に削る方が好きだろうよ、ブレアは。何せ、わしと同じだからな」
ベルドの返事に対して、やれやれと言わんばかりにイリシオスは肩を竦める。
次にイリシオスはブレアへと視線を向ける。ブレアは叱られることが分かっている子どものような表情を浮かべていた。
かなり珍しい表情だが、あまり見ない方が本人のためかもしれない。
「ブレアよ。ベルドに一方的に迷惑をかけられたお主の気持ちは分からんでもないが、さすがに室内での戦闘は推奨出来ぬぞ。周囲に被害が出ておらぬのが幸いじゃ」
「……申し訳ありません」
ブレアは悔しそうに表情を歪めていく。
すると、ベルドが噴き出すように笑いながら、ブレアの態度に上げ足を取り始めた。
「お前、イリシオス総帥を前にするといつも借りてきた猫みたいになるなぁ。その可愛げをわしの前でも見せてくれればいいのに──」
「一言うるさいんだよ、くそ爺ぃっ! 少しは黙っていろ!」
瞬間、ブレアの拳がベルドに向かって放たれたが、背中に目でも付いているのではと思える程に、彼はそれを華麗に避けていた。
この二人、反射神経が半端ない分、お互いに容赦がないようだ。
「殺気が漏れていると言っているだろう、ブレアよ。まだまだ、甘いな。その程度ではわしに傷一つ付けることさえ出来ぬぞ」
「この野郎っ……」
先程までの続きが始まりそうになっている祖父と孫による喧嘩を仲裁するように、イリシオスの杖が再び床を鳴らした。
何の魔力も宿っていないはずの音だが、その音を聞いてしまえば、自然と背筋が伸びてしまう。
「いい加減にせぬか! ベルド、お主もいちいちブレアにちょっかいをかけるな! 周囲に迷惑を与えていることを考えろ! いい歳して、子どものようなことをするでない!」
「はいはい」
イリシオスに叱られるベルドはどこか聞き分けのない子どものような空返事を返しつつ、唇を尖らせる。
一方でブレアの方は怒りがまだ治まっていないのか、唇を強く噛みつつ、額と拳に青筋を浮かせていた。
むしろ、怒りを内側に溜めている方が身体に悪いのではと思える程の厳つい表情をしている。
気苦労の絶えないブレアに、あとで甘い物かお酒の差し入れでもしたいと密かに思ってしまった。
「とにかく、教団が抱えている状況が改善するまで、お互いに接触禁止じゃ!」
「なっ……!?」
「ふむ」
イリシオスの宣言とも言える言葉に、ブレアは悲壮の表情を浮かべる。一方でベルドは、そうなると思っていたと言わんばかりに飄々とした様子である。
「ブレアはベルドを見かけても近寄るな。ベルドはブレアを見かけてもちょっかいをかけるな。お主たちが接触すると、ろくなことが起きぬ! ──いいな!? これは総帥命令じゃ!」
その言葉にミレットが「総帥命令ってものがあるなんて、初めて知ったわ」と呟いていた。恐らく、イリシオスが今、この場で作った命令なのだろう。
イリシオスを前にしてしまえば、ブレアは強くは出られないようで、かなり悔しそうな表情を浮かべながらベルドを睨んでいた。
長年、殴りたかった相手がすぐ近くに居るというのに殴れないという苦しみを抱えているのだろう。表情は怖いが、状況を考えれば哀れにさえ思えてくる。
しかし、イリシオスという存在が居る以上、彼女が発した命令を守らなければならないと理性が分かっているのか、ブレアはそれ以上、ベルドに対して敵意を向けることはしなかった。
その精神力には感心してしまう程だ。クロイドであれば、目の前の理由よりも感情を優先してしまうかもしれない。
だが、ブレアは鍛え上げた精神力で、それまで抱いていた強い怒りなどを一瞬で内側の奥底へと押し込めていた。
……本当に、凄い人だ。
自分はきっと、ここまで辿り着くことは出来ないだろう。
だからこそ、ブレア・ラミナ・スティアートという人物を見上げずにはいられないのだ。




