復讐の陽炎
借りていた服から普段着へと着替えたクロイドとエリオスは、面倒を見てくれたジョシュアに、いつかお礼を返しに来ると告げてからヴィオストル家を出発した。
ヴィオストル家から教団までの道のりはそれほど遠くない。それでも、焦りを見せないように早足で歩く。
街の通りには何も知らないたくさんの人がいつもと同じように過ごしており、穏やかさだけがそこにはあった。
それなのに──。
「……」
クロイドはぴたり、と足を止めてから後ろを振り返る。視界に映るのは、人々が通りを行き交う光景だけだ。
それでも、魔犬の呪いの影響で人一倍に鋭いクロイドの嗅覚は確かに「とある人物」の匂いを捉えていた。
「どうしたんだ、クロイド?」
同じようにその場に立ち止まってから、エリオスも同様に振り返る。
しかし、二人の視界に映るものに変わりはない。やはり、エリオスは気付いていないようだ。
「……エリオスさん、こちらへ」
クロイドは周囲に聞こえない程の声量で呟いてから再び歩み進め、そして近くにあった路地へと入っていく。
エリオスも最初は不思議に思っているようだったが、クロイドが何かを感じ取ったと察したようで、すぐに動きを合わせてくれた。
表の通りと比べて、路地は狭く薄暗い。
それでも、クロイド達は迷うことなく足を進めていき、通りから視線が入ってこない場所に辿り着いたことを確認してからゆっくりと立ち止まった。
一緒に付いて来てくれたエリオスはクロイドへと説明を求めるような視線を向けてくる。
クロイドは軽く頷き返してから、路地の入口の方へと視線を向けた。
「……」
忘れるはずがない。
一度、アイリスを傷付けようとした相手の匂いならば、この身体に刻み込んでいるように覚えているからだ。
だが何故、彼がここに居るのか、その理由だけが不確かに思えた。
クロイドは何もない空間を静かに見つめながら目を細めていく。
「視覚や魔力の感知を欺くことは出来ても、己の匂いまでは隠し切れていないようだが、それはわざとこちらを試しているのか? ──セド・ウィリアムズ」
クロイドが発した言葉に、視界の端に映っているエリオスが少しだけ驚いたような表情を浮かべる。
高位の魔法使いであるエリオスでさえ、感知出来ないようにと相手は景色に擬態しているようだ。
それでも、自分の鼻はしっかりと奴を捉えていた。
「……──なるほど、確かに匂いまでは考慮していなかったな。今後のために参考にさせてもらおう」
低く落ち着いた声が路地に響く。聞き慣れた声はまるでこちら側の思考を一瞬にして支配してしまう程に、不思議な力を持っているように感じた。
ふわりと路地の入口の方から風が吹き、クロイドの前髪を静かに揺らす。
それまで何も無かった空間の景色が一瞬だけ揺れ動き、滲むように一つの影が現れる。
濡れ鴉のような艶やかな黒髪をゆったりと結び、そのひと房を左肩の上へと垂らしている。
感情の読めない表情を浮かべ、薄く開いた碧眼は静かにクロイド達を映していた。
──セド・ウィリアムズ。
数ヵ月前に顔を合わせた時から何も変わりがない様子だが、以前とは何かが違う気配がしていた。
だが、その理由は分からない。何となく、違うとしか言いようが無かった。
「……」
「……」
お互いに無言のまま、静かに視線を交える。
セドのことを恨んではいないアイリスがこの場に居ない今、自分にとって「セド・ウィリアムズ」という人間は、大切な人を傷付けた敵にしか過ぎない。
セドもクロイドから敵意が向けられていることに気付いているのだろう。細い糸が張られたような緊張感がその場に流れていた。
そんな空気を変えるように、エリオスが言葉を発した。
「セドさん、お久しぶりですね」
そういえば、エリオスが所属している魔的審査課は、元はセドが課長を務めていた課だったと思い出す。それ故に二人は知り合いだったのだろう。
だが、セドはアイリスを傷付けようとしたことがあるため、エリオスの心情は複雑に違いない。
数ヵ月前のあの時は確か、エリオスは海外での任務で教団を空けていたため、会うのはお互いに久しぶりのはずだ。
「……ああ、そうだな」
「それで何故、俺達の後を付けていたんです?」
エリオスは無表情のまま、抑揚のない声で訊ねる。
元々、それ程セドの口数は多くはないようだが、自分達の後を付けて来たのには理由があるはずだ。
「……教団で何かあったのか」
「……」
セドの口から零された一言に、クロイド達は沈黙で返す。
今、セド・ウィリアムズは教団には属していない存在となっている。それ故に、教団内部の情報を渡すわけにはいかなかった。
「……なるほど」
だが、クロイド達の沈黙を肯定として受け取ったらしい。
「やはり、間違いではなかったようだな」
「何の話だ」
まるでセド自身が納得して完結しているような呟きに対して、クロイドは思わず声を上げる。
セドは再び目を細めてから、言葉を返した。
「教団での件、原因は悪魔──混沌を望む者、だろう?」
「っ……」
何故、この男は知っているのだろうか。他の団員がこの男に昨夜の出来事を話したのだろうかという考えがふと頭に過る。
そんなクロイドの思考を読んだのか、セドは特に気にすることなく、言葉を続けた。
「……私はあの日から、混沌を望む者の足取りを追っている」
静かに、だが怒気が確かに含まれたその言葉にクロイドは思わず、はっとした表情を浮かべてしまう。
セドにとっての「あの日」が、いつのことなのか、察してしまったからだ。
それは恐らく、彼の姪であるラザリー・アゲイルが死んだ日のことだろう。ラザリーはハオスの魔法によって、致命傷を負い、亡くなった。
まるで、あの日からセドにとっての時間は完全に止まってしまったのか、彼の瞳には薄暗い陰が宿っているように見えた。
自分はその瞳を知っている。
時折、アイリスが魔犬のことを考えている際に、薄っすらと浮かべる瞳と同じだからだ。
ふと、頭に「復讐」という言葉が浮かんで来る。
……セド・ウィリアムズは、ハオスを……。
それだけで察してしまったクロイドは、続きの言葉を発することが出来ずにいた。
今、目の前に居る彼の姿が、復讐のためだけに生きている陽炎のように思えたからだ。
失うものはもう何もないと覚っているからこそ、セド・ウィリアムズの存在はとても危うく思えた。




