君が呼ぶ名前
ユグランスは大きな扉の前で警備をしている衛兵に、胸元に下がっている手形を見せる。
しかし、手元には関門のところで借りた手形だけでなく、元々ユグランスが持っていた「ヴィオストル家の当主」の身分を示す銀色の板によって作られている手形も握られていた。
「ヴィオストル家の当主、ユグランス・ヴィオストルだ。十一時から国王陛下との謁見を申請しているが、陛下は在室しておられるだろうか」
それまでクロイド達と接していた時の声色とは別に思える程、低い声色でユグランスは衛兵達へと訊ねる。
王宮に居る際にはヴィオストル家の当主として、隙を相手に見せないように振舞っているのだろう。
「はっ! ヴィオストル卿がお越しになることは伺っております」
「それでは、手形を」
「うむ」
クロイド達も衛兵に促されて、首に下げていた手形を一度、外してから渡した。
三人分の手形を確認してから、衛兵は顔を上げる。
「謁見の申し込みはヴィオストル卿とその供として二人が随行されていると伺っておりますがこちらの二人でお間違いないでしょうか」
「ああ。こちら、私の甥であるエリオス・ヴィオストルと姪の婚約者であるクロイド・ソルモンドだ。もし、身元に詐称があると思うのならば、詳しく調べるといい」
今、さらりとクロイドのことをアイリスの婚約者だと言っていたが、これはユグランスに認められていると受け取ってもいいのだろうか。
だが、今はそのようなことを考える場合ではないとクロイドはすぐに平常心を保てるようにと腹部に力を入れる。
「いえ、結構でございます。身元の確認が取れましたので謁見の間へとお通しいたします」
衛兵は三人分の手形を返してきたため、クロイド達は再び、手形を首へとかけ直した。
……そういえば、「クロイド・ソルモンド」のことを知っている人間は王宮にどれ程の数、居るのだろうか……。
元々、王宮から追い出された際に、「クロイド・ソルモンド」という名前に変わったが、このことを知っているのは一部の人間だけだろう。
目の前にいるユグランスだけでなく、自分の実の親兄弟である国王やアルティウス王子でさえ知らないようだった。
クロイドを田舎の教会へと連れていった王宮の人間だけが、「クロイド・ソルモンド」の名前を知っていたのかもしれない。
今の名前は、自分で名付けたわけではない。王宮から追い出され、教会へと入れられる際に自分に付き添っていた王宮のとある人物が付けた名前だ。
その者は先代の国王の時から側近のように仕えていた男性で、すでに老齢だったことから今も生きているかどうかは分からない。
もしかするとまだ王宮に勤めているのかもしれないし、すでに職を辞しているかもしれない。
どちらにしても、名付けた本人が国王だけでなく周囲にも知らせていないならば、彼以外に「クロイド」の名前を知っている者はいないだろう。
「クロイド・ソルモンド」という名前は、元々は存在しない人間の名前だ。
だからこそ、この名前をこれから名乗るようにと告げられても、心が大きく揺れたことなどなかった。
悲しいとも思わなかったし、新しい自分になろうとも思えなかった。
ただ、淡々と受け入れて、それが自分の名前なのだと思い込むしかない程に、意味も愛着もない名前だった。
あの頃の自分は、己に関わる全てがどうでも良かったのだ。
いつか、人間としての死が訪れるまでの仮初めの名前なのだから──そう、思っていたのに。
──……クロイド!
その名前を初夏のような爽やかさと柔らかさを含んだ声が呼んだだけで、意味のあるものへと変わってしまったのだ。
自分の目を見て、心から名前を呼ぶ声にはまるで魔力でも宿っているのではと思える程に熱が込められ、一欠けらとして聞き漏らしたくはないものだった。
アイリスが、「クロイド」と名前を呼ぶ。
たった、それだけなのに。
それだけのことで、自分が持っていた世界は一瞬で変わっていた。
この時、自分は本当の意味でやっと「クロイド・ソルモンド」として存在することが出来たのだ。
きっと、アイリスが自分に魔法をかけたのだろう。
優しくて、温かくて、そして何度だって名前を呼ばれたいと思ってしまう魔法を。
自分に手を伸ばしてくれた時から、彼女だけは自分のことをこの世にたった一人しか存在していない「クロイド・ソルモンド」として見てくれていた。
イグノラント王国の第一王子でも、呪われた男でも、何でもなく。
たった一人の相棒として。
だが、今はアイリスの声を聴くことが出来ない。それがあまりにも辛かった。
「……」
クロイドは唾を飲み込みつつ、周囲に覚られないように両手の拳をぎゅっと握りしめる。
抱いているアイリスへの熱情を胸の奥へと潜めてから、クロイドは今から始まることだけに集中し始める。
ぎぃっと、謁見の間へと続く扉が年代を感じさせる音を立てる。その音と共にクロイドは短く息を吐いてから、前を真っ直ぐに向いた。
かつりかつりと革靴が床上を歩くことで、重みを含んでいるような音が響く。まるで別世界へと訪れてしまったように、その場には静寂が満ちていた。




