守られた約束
狂信的な叫びが響く空気の中、スティルが持つ短剣が風を斬る音が聞こえた。恐らく、スティルが短剣を振って、手に慣らしているのだろう。
「……っ!」
風が何度も斬られる音を耳に入れたアイリスは思わず、目を強く瞑った。
「……さて、やるか」
スティルの低く、おどけたような声が聞こえ、もうすぐ彼が手に持っている短剣がこの身に振ってくるのだと、アイリスは心だけを身構える。
──しゅっ。
だが、短剣によって風を斬った音の次にすぐさま聞こえたのは、固いものに金属を打ち付けるような鈍い音だった。
痛みも降ってこない。
一体、何が起きたのかと確かめるためにそっと瞼を開くと、何故か空中でスティルの持つ短剣が受け止められていた。短剣とアイリスとの距離は約20センチ程だ。
まるで、見えない壁に防がれているように、スティルが持つ短剣はそれ以上の距離をアイリスと縮めることが出来ていないようだ。
「え?」
ラザリーが拍子抜けしたような声を漏らす。
「何だ? どういうことだ……」
こちらを見ているウィリアムズも目を丸くして驚いている。まるでアイリスの身体に結界が張ってあり、それによって短剣からの痛みを防いでいるように見えた。
ただ一つ、分かることがあった。
……ああ、そうか。
自然と涙が出てきた。胸元にあるただの黒い雫型の石。それが何故か今は温かく感じる。
クロイドからこの石を贈られた時、彼は石に魔力を込めたと言っていた。
彼の願いが、今ここで守られているのだ。
クロイドも自分と同じように石に願いを込めていた。
その願いがどのような言葉で綴られていたのかは知らなくても、アイリスはたった今、クロイドによって願われたものを実感していた。
「くそっ……。何だよ、これ……!」
スティルが何度もアイリスに向けて短剣を振り下ろすが、一度も掠ることはなく、荒々しい金属音を立てながら跳ね返されている。
「ちょっと、手荒にしないで頂戴。刃先が傷ついたら、儀式に使えなくなるわ」
少し慌てたようにラザリーがスティルを止める。
「これ、ただの石だから放っておいたけど、まさか魔力が込められていたなんて……」
面倒くさそうにラザリーがアイリスの方へと手を伸ばしてくる。恐らく、アイリスの首に下がっている黒い石の首飾りを取り上げる気だ。
……触らないで!
そう叫ぶことが出来ないため、視線だけで威嚇する。だが、その威嚇がラザリーに効くことはない。
少しずつ、伸ばされる手に対して、どうすればいいのか思考を巡らせていた時だ。
ふと、月の光が射し込んでいるはずの天井の窓に影が出来る。ゆらりと動く影は先程まで、そこにはなかったはずだ。
……あれは。
天井の窓に映っている、見たことのある痩躯の影にアイリスは自然と目の奥が痛むのが分かった。
瞬間、その影が動き、天井の窓ガラスが一瞬で破片へと変わる。
「なっ……誰だ!?」
ウィリアムズが窓ガラスの割れる音に気付き、頭上を見上げる。
だが、突如としてやってきたその影の動きを捉えることは出来ず、その場にいる者達は降り注ぐように落ちてくる窓ガラスの破片から自身を守ろうと頭に手を添えては体勢を低くしている。
「ひっ……」
ラザリーの短い悲鳴が聞こえる。
壇上の下にいる人間達からも、小さな叫び声が上がっていた。
そんな中、アイリスだけは冷静に、そして他人事のようにその一連の出来事を感じていた。
もう目を開けて、悪い夢から覚めても大丈夫だろうか。
「──アイリス」
名前を呼ぶ、穏やかな声だけが自分の心を強く支えてくれる。
瞳をゆっくりと開けて、アイリスはやっと悪い夢が終わったことを実感した。
魔犬化したクロイドが同じ土台の上に居た。まるでアイリスを守るように。
黒く美しい瞳を向けてくる彼にアイリスは涙ぐみながら微笑んだ。
ウィリアムズは状況を掴めないと言った顔をしている。スティルとラザリーも突然の訪問者に驚き、後ろへと下がっていた。
「な、何? この犬は何なの?」
クロイドはラザリーの方へと顔を向けて、一つ吠える。
「──ガウッ!!」
その声が見えない塊となり、ラザリーを襲う。まるで、空砲にやられたかのようにラザリーは声を上げる暇もないまま、かなり後方まで飛ばされた。
「おい、邪魔だ!」
スティルが短剣を振り上げて、クロイドに襲い掛かろうとしていたが、クロイドは土台を蹴り上げて、獣が人を襲うようにスティルの腕へと噛み付く。
「痛っ!」
噛み付かれた痛みにより、スティルが短剣をその場に落とし、クロイドは腕から口を離して着地した。
「このっ……!」
ウィリアムズが杖を取り出し、クロイドへと向ける。彼はクロイドに向けて魔法を使う気だと、アイリスが焦りそうになった時だ。
ウィリアムズが魔法の呪文を呟こうとした瞬間に、クロイドの周りにぶわりと強い風が吹いた。その風によって、アイリスは一瞬だけだが目を瞑ってしまう。
次に瞼を開いた時にはすでにクロイドが魔犬化の変身を解き、人間の姿へと戻っていた。
「──君だったのか……!」
さすがに犬の姿へと変身しているとは分からなかったのだろう。ウィリアムズは驚きを隠せないでいるようだ。
クロイドは黙ったまま、スティルが落とした短剣を拾い上げる。
「……これでアイリスを殺そうとしていたのか」
静かに、問いかける。
背中を向けられているスティルにとっては今が、攻撃をする絶好の機会であるにも関わらず、彼は動こうとはしない。ただ、口を何度も開いては閉じている。
「お前達の欲望のために、アイリスを殺そうとしたのかと聞いている」
凛と低い声が響く。
クロイドは手にした短剣の刃をじっと見つめていた。
壇上の下に集まっている信者達はクロイドの登場によって、何が起きているのか分からず、口々に喚いているだけだった。
「……殺すも何も……。我々はただ、エイレーンを呼ぶために……」
「それが、アイリスを殺すということだろうが!」
珍しく、クロイドが声を荒げた。
彼の黒い瞳には怒りの炎が見えるように揺らいでいた。
クロイドが短剣を握りしめて、突撃するようにウィリアムズへと突っ込む。
「っ!」
ウィリアムズは杖を使ってクロイドからの攻撃を何とか防ごうと、空中に何かを描こうとしていた。
だが、それよりも動きが速かったのはクロイドだった。短剣を横に薙いで、素早く杖を真っ二つにしたのだ。
あまりの早業にアイリスも瞬きをするのを忘れていた。
クロイドは剣が扱えるのだ。しかも、先程の剣の構えはどこかで見たことがある気がする。
もしかすると、教団に来る前に剣術を習っていたのかもしれないとそんな事を考えているうちに、クロイドはウィリアムズの間合いへと入って、彼の腹部に蹴りを強く入れていた。
「ぐっ……」
クロイドによって蹴り上げられたウィリアムズはそのまま壇上の下へと飛ばされて、鈍い音を立てながら床に叩きつけられるように倒れた。
周りの人間達が何事かとウィリアムズの周りに集まって、抱え起こしているようだ。
「──アイリス、無事か!?」
クロイドが勢いよくこちらへと振り返り、自分へと駆け寄って来る。彼はいつものように、心配をしている表情で唇を噛み締めていた。
クロイドは持っている短剣を使い、アイリスの手足を縛っている縄を素早く切っていく。そして最後にアイリスの口に押し込まれるように咥えさせられていた布を解いて、抱え起こした。
「大丈夫か? ……それより、この服は……」
アイリスが薄着の姿に着替えさせられていたため、さすがのクロイドも焦ったように慌てふためく。確かに布一枚だけしか着ていないので、これでは肌の色が透き通って見えるだろう。
「私は大丈夫よ」
年頃の少年のように少しだけ顔を赤らめて、右往左往するクロイドにアイリスは小さく笑う。そして、頭を彼の胸に押し付けるように預けた。
「……ありがとう、クロイド。助けに来てくれて」
「っ……」
戸惑いながらもクロイドがそっと、アイリスの身体を抱きしめる。優しくも強い力が愛おしく感じられた。
そうだ、この温かさだ。
この温かさを求めていたのだ。
生きているのだと実感出来るその温度にアイリスはまた涙した。
喜びと言うべきか、それとも優しさと言うべきか。
全ての感情をまとめても、きっと──生きるということを上手く表現できる言葉は見つけられないだろう。見つけることが出来なかったわけではない。
どれかの感情に当てはめることが出来ないほどに、勿体ないと思えたのだ。
でも、今は泣いている場合ではない。アイリスは顔を上げて、指先で涙を拭う。
「自由になれば、こっちのもんよ。クロイド、その短剣、貸してくれる?」
「え? ああ……。だが、その前に」
クロイドは羽織っていた薄手の上着を脱いで、それをアイリスの肩へと羽織らせる。
「そのままでは寒いだろう。今だけでいいから、これを着ていてくれ」
彼なりの優しさなのか、そっぽを向いたまま早口にそう告げるクロイドにアイリスは少し驚いたように目を丸くして、再び笑った。
「ありがとう」
貸してもらった上着の袖に腕を通していく。ふわりと自分を包み込むクロイドの優しい匂いに、思わず安堵してしまいそうになった。
そして気合を入れるように息を吐いて、深く吸い込んだ。土台から下りて、クロイドの隣へ立つ。
壇上の下ではエイレーンの信者達が降霊の儀式が行われないことに腹を立てているのか、罵声が飛んでくる。
それさえも無視して、アイリスはクロイドの隣に自分はしっかりと立っているのだと、改めて実感し直していた。
「……もうすぐ、ブレアさんたちも来るぞ?」
彼はどうやら一人で突っ走ってきたらしい。ウィリアムズ達三人くらいなら、まだ相手に出来るかもしれないが、この壇上の下にいる人間達全てを相手にするのは、簡単ではないだろう。
「あら、私に暴れるなっていうの?」
「……どうせ、止めても無駄だろう?」
「よく分かっているじゃない」
されたいまま、されるわけにはいかない。
だが、腹の奥底では自分に対するものではなく、エイレーンを利用されたという事に対する怒りの方が大きかった。
アイリスは短剣を握りしめて、真っすぐと壇上の下に集まっている人間たちを見下ろす。
「──あなた達の望むエイレーンは絶対に来ないわ! 文句があるなら、かかってきなさい!」
エイレーンの意志とは、違うものを尊重する彼らを許すことは出来なかった。
自分だってエイレーンの事は尊敬している。だが、それが偉大だという言葉につながることはない。
彼女がたった一人の人間として生きていたことを知っているからだ。
だからこそ、彼女の誇りのためにも自分は折れるわけにはいかないのだ。