友達
明くる日、いつもより早く目が覚めてしまったアイリスは混んでいない時間帯を狙って食堂へと向かった。この「嘆きの夜明け団」には、入団者用の寮があり、また大食堂がある。
一応、それぞれの部屋に簡易調理台も付いているのだが、アイリスは料理が出来ないため、いつも食堂で食べていた。
朝食として頼んだのはBセットのトースト、ベーコンエッグ、オニオンスープだ。
料理の皿が載せられたトレイを持ってどこの席で食べようかと迷っていると、一番端っこの席で黙々と一人で朝食を食べているクロイドの姿を発見した。
近づいてくるアイリスに気付いたのか、クロイドはすっと顔を上げる。
「おはよう」
「……」
だが、返事は無い。そして相変わらずの無表情だが、彼の視線はトレイと言うよりも、アイリスの左手と何も持っていない右手を交互に見ていた。
「前の席、お邪魔するわ」
それでも返事は無く、暫くの間は無言だったが何とか聞き取れる程の小さな声で彼はぼそりと呟いた。
「……腕は大丈夫なのか?」
アイリスはぴたりと朝食を食べる手を止める。
今、確かに目の前のクロイドから声がした。そして、その言葉は自分を気遣うもののように聞こえたのだ。
「だっ……大丈夫よ。少し痛むだけで、放っておいたらすぐに治るくらいだもの」
大丈夫だと言わんばかりにアイリスは手をひらひらさせてみる。少々痛いのは我慢だ。
「……そうか。でも、一応医務室には行っておいた方が良い」
これはクロイドから心配されていると、受け取っても良いのだろうか。何か言おうと口を開きかけた時、自分の後方から耳に入れたくはない声が降りかかって来る。
「――まぁ、朝から二人で朝食ですか? 仲がよろしいですわね」
耳障りだと思ってしまうその声にアイリスは舌打ちしそうになった。いつのまにか、すぐ近くまでハルージャが来ていたというのに気付かなかったのはこちらの落ち度だろう。
今日は珍しく取り巻きを連れていないようだが昨日、故意ではないとは言え、自分を階段下へ突き落とした事はすでに忘れているようだ。
「……全く、性格が悪い奴は学習能力も無いのかしら……」
「アイリスさん、何か言いまして?」
「いいえー、何も。それで何か用? 用が無いなら、さっさとあっちに行って頂戴」
折角、クロイドと会話が成り立とうとしていたのに、ハルージャのせいで台無しになってしまったではないか。
「あら……。私に対してその様な言い方をしても宜しいのかしら?」
ハルージャはいつも彼女自身が持つ家名や魔法使いとしての権威を見せつけようとしてくるが、アイリスには無駄な行為である。
そんなものが効くのは大抵、ハルージャに弱みを握られている者か、彼女よりも自分の方が格下だと思ってしまっている者だろう。
「……言っておくけど、教団に入っている時点で地位も、名声も財産も関係ないわ。重要なのは本人の実力があるかどうかよ」
アイリスは拳を握り締めて我慢した。心の中でハルージャに手をあげてはいけないと何度も呟く。
今までも、殴りかかりたい衝動に駆られたことはある。だが、相手は一応女性だ。それに団員同士の暴力は禁止されている。
しかし、そこでハルージャはにやりと意地悪そうに笑い、ではと言葉を続けた。
「魔力の無いあなたにそんな事を言う権利は無いんじゃないかしら?」
駄目だと自覚した瞬間にはすでに遅かった。頭まで一気に血が上ったのだ。
アイリスの身体は一瞬にして指の先まで熱いものへと変わっていく。
ばんっとアイリスはテーブルを叩いて立ち上がる。まばらで人は少ないものの、食堂に居る全員がこちらを気にする素振りで視線を向けて来ていた。
鋭い刃のような視線でハルージャを睨むが、彼女はまるで勝ち誇ったような目でアイリスを見て口の端を吊り上げた。
なるほど、どうやら自分を悪目立ちさせたくて、わざわざ話しかけてきたらしい。
本当に性格が悪いとしか言いようがないが、その態度と言葉につられてしまった自分も良い笑いものだろう。
「その辺にしておけよ」
クロイドがゆっくりと顔を上げ、ハルージャを見据える。
「あんたがそれ以上何か言ってくるなら、俺も昨日の事は黙っちゃいられない。今、立ち去らないと言うなら、昨日の行為を暴力だと判断し、上に報告も出来るがどうする? ……それに俺の噂ぐらい聞いているだろう? 『呪われた男』に近づいて、どうなるか知らないのか?」
クロイドはハルージャに対して低い声で静かに脅しをかける。その黒い瞳は細められ、鋭利な黒曜石のように見えた。
クロイドの睨みが効いたのか、少し怯えたようにその身を震わせたハルージャは、彼女にしては珍しく顔を引き攣らせていた。
そして、逃げるようにこちらに背を向けて、早足でアイリスの元から去って行く。
どうやら、普段から人の目や評価を気にする彼女にとっては、自分という価値に傷を付けたくないらしい。
だが、彼女の口から零れる言葉は暴力の内に入らないのだろうか。
「やっと行ったわね……。助かったわ、ありがとう」
力が抜けたように椅子に座るアイリスをクロイドは一瞥する。
「仲が悪いな。何かしたのか?」
「はぁ? するわけないでしょ? むしろされる方よ!」
アイリスは疲れたように深いため息を吐く。ハルージャとは所属している課が違うため、毎日会うことはないが、会うたびに嫌味を言われるので堪ったものではない。
こちらばかり、疲労が蓄積されるのは不公平ではないだろうか。
「理由が無くてあそこまで絡んでくるか?」
「理由ねぇ……。……多分、私が首席合格だった事をまだ根に持っているのよ」
「それは……自慢か?」
「そんなわけないでしょ。……セントリア学園中等部の入学試験の時、私が一位で向こうは二位だったらしいの。それからは向こうが勝手に敵視してきて、学園内の試験がある度に衝突してくるのよ」
今は長期休暇中で学園は休みだがアイリスは嘆きの夜明け団に団員として勤めながら、ここから近い「セントリア学園」に学生として通っている。
もちろんミレットやクラリスも同じだが、ハルージャとその取り巻きも一緒の学園なのだ。
こちらに悪気が無い分、いちいち嫌味を言ってきたり、楯突いてくるのは全く迷惑な話である。
「それはそうと……あんな脅し方は良くないわ。そうやって、突っぱねていると友達が居なくなるわよ」
「……別にいい。友達なんて元からいない」
その返答にアイリスはぐっと言葉を詰まらせた。
そうだ、ブレアが言っていたではないか。教団に来る以前のクロイドは孤独を感じながら生きて来たと。もしかすると、今もその孤独を感じながら生きているのかもしれない。
独りの悲しみや寂しさなら、自分だって痛いほど良く知っている。
昨日の今日で、彼の全てを知る事は出来ないだろう。だが、理解したいという想いだけは伝えなければならない。
せめて、これから仕事上の相棒となる自分だけは彼を孤独にする気はないということを直接言いたかった。
自分が今、クロイドに対して持っている気持ちがお節介というのならば、そうなのかもしれない。
それでも、自分はやると決めたからには、引く性質ではないのだ。
だからこそ、今ここで彼に伝えたい言葉は一つしか思い浮かばなかった。
「人は……独りでは何も出来ないわ」
「……は?」
突然、何を言っているんだと言った瞳でクロイドはアイリスを見てくる。
「私だって親しいと呼べる友達は少ないわ。でも私の周りの人達は、相手を支えてあげたいって努めている。……えっと、つまりは相手の苦手なことを自分の得意なことで補って支えているってこと。……それが友達や相棒の役割だと思うの」
はっきりと言葉にするのは難しいが、伝えなければならないのは確かだ。
「……何が言いたいんだ」
クロイドは不審なものを見るような瞳でアイリスをじっと見つめて来る。だが、その瞳はアイリスをはっきりと見据えているものではないと分かっていた。
彼は人を見ることでさえ、恐れるのだろうか。
小さく決意したアイリスは持っていたスプーンをびしっとクロイドへと向ける。
「だから、私があなたの相棒兼友達になるって、言っているの。これから先、あなたにとって苦手なことは私が補ってあげるってこと。……分かった?」
意識して重なった視線の先にある彼の瞳の奥は小さく揺れており、驚いているというよりも、戸惑っているようだった。
「……勝手に……しろ」
クロイドは視線を逸らし、トレイを持って食堂の調理場近くの返却口へ返すと、さっさと食堂から出て行ってしまった。
その後ろ姿を見送って、アイリスは深い溜息をつく。
どうも溝が埋まりにくい。こちらが親しくなろうとしても、あんな様子では到底叶わないだろう。
「――どうしたの? 浮かない顔して」
アイリスの頭の上から柔らかく優しい声がふわりと降って来る。
朝食のトレイを持って隣に座ってきたのはクラリスだった。いつも黒と白で統一された修道服を着ているのは彼女自身が「修道課」に所属しているからだ。
医療魔法にも長けており、医務室で助手が出来る程の腕前の魔力を持っている彼女だが、ハルージャと違って全く自分の力を自慢したりなどしない。
「あ、おはようございます、クラリスさん」
「おはよう。ねぇ、さっきまで居た子って新しく入ったって噂の子?」
「はい。……実は彼と相棒を組まされまして」
「魔具調査課は二人行動が厳守だものね」
「でも、全く心を開いてくれないので、どうしようかと……」
最早、お悩み相談だがクラリスは聞き上手なので、カウンセラーとしても有名である。彼女の優しい声と穏やかな性格は、相談している者も安らかな気持ちになるのだろう。
「うーん……。ここに来たばかりなら、きっとまだ慣れていないんでしょうね。……ねぇ、アイリス。そういう人には優しく接してあげるものよ」
「優しく……ですか?」
「ええ。人は不安な時や寂しい時、優しいものに惹かれやすいわ。誰にだって、その人自身を救ってくれるものは必要だもの。あなただってそうでしょう、アイリス」
そう言って微笑むクラリスはまさに聖母のようである。さすが、二年連続で「偉大なる聖女」の称号を得ている人は言う言葉の重みが違うなとアイリスは深々と思った。
「あ、でも厳しさも必要よ? 構いすぎも駄目だけど」
クラリスはアイリスに向けてくすり、と小さく笑う。
どうやらアイリスがお節介な性格をしていることは承知済みらしい。
「わ、分かってますよっ! クラリスさん、助言して下さってありがとうございました」
アイリスが立ち上がろうとすると、クラリスは急いでそれを止めてくる。
「ああ、待ってアイリス。……右手を出して?」
どうやら医務室の天使には無理をしてトレイを持っていた事がお見通しだったらしい。これでも、普段通りに見えるように動いていたつもりだったのだが。
アイリスは渋々、右手のシャツを腕捲くった。皮膚が青くなっているのは、素人が見ても分かる痛みの現れである。
クラリスはにこりと笑いポケットから魔具である白手袋を取り出してはめると、自分の両手をアイリスの右手に重ねた。
「――癒し手の風」
クラリスが治癒魔法の呪文を唱えると、白手袋をはめた彼女の手から柔らかく暖かいものを感じた。自分の右手に熱が帯び始めると共に痛みが少しずつ引いていくのが分かる。
やはり、魔法と言うものは本当に凄いものだと改めて感心してしまう。しかし、アイリスは痛みが引いたというのに顔をふっと顰めた。
「……放っておけば、すぐに治るんです。クラリスさんの魔法を使ってまで治すような怪我じゃないのに……」
アイリスは魔法を使う事はその者にとって、負担が掛かる事だと知っている。
だから、普段からは大怪我をしない限り医務室には行かずに自然治癒で傷を治していた。
「あら、でも治せるうちに治しておかないと更に悪化してしまうかもしれないわ。……アイリス、こういう事は我慢しなくてもいいのよ。もっと自分を大切にしなさいな」
優しく微笑みかけてくるクラリスにアイリスはたじろぐ。結局、この笑顔の前では何も隠せないし、全く敵わないのだ。
「わ……分かりました。今度からはちゃんと医務室に行きます……」
「足も今、治しておきましょうか?」
「だっ……大丈夫です! もう、痛みも引いていますし! では、ありがとうございました」
「気をつけてね」
アイリスは頭を小さく下げて、空になった皿を載せたトレイを返却口へ返すために両手で持つと、少々早足気味にクラリスの元から去った。
・・・・・・・・・・
「はぁ……。やっぱり敵わないわ……」
普段は勝気なアイリスだが、それでも敵わない人は数人いる。その中でもブレアとクラリスは特に自分に親身になってくれていることもあり、頭が全く上がらない唯一の人達である。
ブレアは自分に剣術を教えてくれた師匠でもあり保護者だ。また、クラリスは優しい年上の姉のような存在なのだ。
「それにしても、クロイドはどこに行ったのかしら……」
もしかするとすでに魔具調査課に行っているのかもしれない。部課がある建物へ行くには中庭を通る方が近道である。
ふとそちらに視線を向けると、中庭で魔法の鍛錬をしている団員が目に入ってきた。どうやら水の魔法を練習しているらしく、その団員の周りにはいくつもの水溜りが出来ている。
どんな魔法なのだろうか。魔力の無いアイリスは少しだけ羨ましいと思いながら、引き剥がすように視線を背けてその場から立ち去った。