殺気
だが、ブレアの真摯な態度を嘲笑うような声がその場に響き渡ったのである。
「──くっ、はははっ……! あの、ブレアが……! この私に頭を下げただと!? ははっ……!」
アドルファスはさも愉快だと言わんばかりに大声で笑い始めていた。
その声は魔的審査課全体に響き渡っていたようで、方々からはどこかアドルファスの行為を咎めるような視線を向けてくる団員達もいた。
だが、アドルファスはそのようなことを全く気にすることなく、面白いといった様子で笑い続けるだけだ。
「ああ、おかしい……! こんなにも愉快な気分になったのは初めてだ。そうだなぁ……お前がこの場で私に向けて跪くというならば、入室許可を出してもいいだろう」
「……」
ぴきっと、何かが破裂するような音が聞こえたのは気のせいではないだろう。
ブレアの後ろに控えていたクロイド達は嫌な予感がしたため、本能的に一歩ずつ、後方へと下がっていく。
「それと、そいつもだ。貴様も私の前で跪いてみせろ」
そう言って、アドルファスが指をさしたのはクロイドだ。
何となく、こんなことになるような予感はしていたので、クロイドはアドルファスに気付かれないように溜息を吐く。
ちらりとミレットの方に視線を向けると、ミレットは頷き返していた。
彼女の手もとにはこの場における全てのやり取りを音声として記録するための魔具がすでに起動している。
恐らく、精霊に関する情報のやりとりを記録するために持ってきていたのだろうが、このような状況になったため、「証拠」を作るために魔具を起動させたのだろう。
手帳型の魔具にはアドルファスとブレアとの会話が事細かく、かつ自動的に文字が浮かび上がるように記されていた。
ミレットの「情報を一切無駄にしない」行為は本当に用意周到過ぎて尊敬する程だ。敵には回したくはないと何度思ったことだろう。
「……跪いたら、本当に地下牢への入室許可を頂けるんですか?」
クロイドが再確認するように訊ねるとアドルファスは鼻で笑いながら答えた。このやりとりもミレットが持っている魔具にしっかりと記録されているはずだ。
「もちろんだとも。そして、これまでの私に対する態度を悔い改めた謝罪を要求する。……ん? そういえば、アイリス・ローレンスがいないな? あの娘には散々、迷惑をかけられたからな。せめて、靴でも磨かせてやろうかと──」
瞬間、その場の空気が一気に冷たいものへと変わった。刃のように鋭く、息をするのが困難だと思える程に重苦しい。
……これはブレアさんの殺気か。
ブレアの殺気は室内全体に伝わっているようで、視界の端では殺気の強さに中てられて気を失う団員もいた。
「……この課長、とんでもなく阿呆だわ。一応、ブレア課長と兄弟弟子同士のはずなのに、彼女にとって何が『引き金』なのか気付いていないなんて」
ぼそりと呟いたのはミレットだ。彼女は小刻みに震えつつも、いつの間にかクロイドの陰に隠れるようにしながらその場の様子を窺っていた。
それでも、気を失っていないのは普段からブレアと接しているからだろう。
リアンに至っては歯をがちがちに鳴らしつつ盛大に怯えているし、イトは彼女にしては珍しく青ざめた表情をしていた。
クロイドとて、その場に感じる冷気によって身体が震えてしまっている。
それは一体、何故か。答えは簡単だ。
アドルファスがブレアを本当の意味で、怒らせたからである。
「──ふっ」
短い息が吐かれた瞬間、後ろで待機していたクロイド達の身体には痺れる何かが頭から足先まで流れていった気がした。
後ろに隠れているミレットが「ひぃっ」と短い悲鳴を上げる。
……これは、まずいぞ。
しかし、止める手段などないし、止め方など分からない。
むしろ、アドルファスにとっては自業自得であるため、ブレアを止めて彼を助けようなどと思っていなかった。
それまでアドルファスに向けて頭を下げていたブレアはゆっくりと顔を上げる。
「おい、まだ私は頭を上げて良いなど──」
「黙れ、くず野郎が」
ぴしゃりと言い放たれた言葉と同時に、ブレアは右手でアドルファスの胸元を掴み上げて、宙吊り状態にしていた。
「ああ、私が馬鹿だった。そうだよな、お前みたいな奴に頭をまともに下げても聞き入れるわけがないよな。それどころか調子に乗らせてしまうなんて分かりきっていたのに……。ははっ、私もまだまだ詰めが甘い」
「ぐ、はっ、離せ、馬鹿者……!」
「馬鹿だって? ふふっ……。本当に馬鹿なのはお前だろう、アドルファス。昔から全くと言っていい程、成長していないな。自尊心が高い我が儘な子どもがそのまま大きくなったような、愚かな人間のくせにそんな言葉を口にするなんて、何とも笑える話じゃないか。──なぁ、私はずっと前にも言ったよなぁ? 私自身が大切にしているものを馬鹿にすれば許さない、と。それなのにお前はどうしていつも忘れてしまうんだろうなぁ? やはり、脳で記録する許容範囲が狭すぎるんじゃないのか? でなければ、年下の魔法使いに実力を容易く追い越されないわけがないもんなぁ」
ブレアはにこりと笑ったまま、アドルファスが床に足が着かないようにと更に宙吊りにする。
片腕で成人男性を軽々と持ち上げることが出来るなど、誰が思っただろうか。
「……こ、こ、こ、怖いぃっ……」
「リアン、堪えるのです。あの殺気は私達に向けられているものではありません……!」
後ろからは震える声で恐怖を訴えてくるリアンと、そんな彼を必死に宥めようとするイトの声が聞こえた。
狂暴な魔物を相手にしてきた彼らも、怒りに満ちたブレアの姿はとてつもなく恐ろしく見えているらしい。
クロイドもブレアがこれほどまでに怒りに満ちている姿を見るのは初めてだったので、暫くは動けずにいた。




