最愛の君
クロイドは唇を真っすぐに閉じたまま、ゆっくりと歩を進めて行った。
その足取りは相変わらず重いままだが、迷うことなく真っすぐと歩くことが出来たのは、この先に会いたい人がいるからだ。
並べてあるベッドを避けながら通路を歩きつつ、クロイドは目を瞑ったまま動かない団員達の表情を眺めて行く。
誰もが静かに眠っているようにしか見えない。
だが、呼吸も鼓動も魔力も何も感じないため、この空間が異常な程に異質に感じられた。
生気が感じられないからだろうか。確かに人はいるのに、まるで墓地にいるような心地だ。
この中に、アイリスがいると思うと胸の奥が苦しくて堪らなかった。
クロイドは視界を巡らせて、ゆっくりと歩いていく。歩いている途中で他の団員達が動かない仲間に縋りつく光景が目に映り、思わず唇を噛み締めてしまった。
誰もが目を開くことのない仲間に向けて、悲痛な声を上げている。
起きろ、目を覚ませ。そんな言葉が眠っている者の名前と共に響いていた。
「……」
それでもクロイドは立ち止まることなく進み続ける。この先に居るはずの唯一の人を求めて。
そして、最愛の人の姿を目に映して、自然と表情を歪ませてしまう。
白いベッドの上でアイリスは眠るように目を瞑っていた。薄い金色の長い髪はベッドの上に広がり、閉じている瞼は今にも開きそうだ。
まるで物語の一場面を見ているかのように、穏やかで美しく思えた。
だが、先程と変わらない姿で彼女は動かないままだ。怪我はしていないが、顔は恐ろしい程に青白く、蝋人形のようだった。
「アイリス……」
小さく名前を呟いてから、クロイドはアイリスの傍へと寄る。名前を呼べば、目を覚ますのではと何度も錯覚しそうになる。
そんなこと、ありえないのに。
クロイドは泣きそうな表情を浮かべつつ、アイリスが眠っているすぐ傍に立ち、そして右手を彼女の頬へと添えるように触れた。
「アイリス」
名前を呼びながら、クロイドは冷たいままの頬をゆっくりと撫でる。滑らかで柔らかな感触が指先から伝わってくるのに、自分の熱を渡すことは出来なかった。
親指で優しく沿うようにアイリスの唇に触れてみる。いつもならば、この薄桃色の唇から自分の名前を呼ぶ声が零されるのだ。
それなのに、今は一度も動くことなく固まったままだ。
右手をそのまま、アイリスの金色の髪をかき上げるように触れてみる。
さらりとした感触が伝わってくるのに、どうしてもアイリスを触っているという感覚にはなれなかった。人形に触れているような感覚に、胸が押し潰されそうになる。
自分の最愛の人がここにいるのに、「いない」のだ。それがどうしようもない程に辛くて、悲しくて、苦しくて。
そして、自覚するのだ。
自分はこれほどまでにアイリスのことを愛していたのだと。彼女無しでは生きられないのだと改めて知ってしまった。
その感情を知ってしまえば、もう押し留めることは出来なかった。
「……本当に、君という人は優し過ぎる」
くしゃり、とクロイドの表情が歪み、目を瞑ったままのアイリスの身体を抱きしめるように上から覆いかぶさる。
冷たい身体の肩口に額を添えて、クロイドは声を漏らさないようにむせび泣いた。
抱き締め返してくれるはずの腕はだらりとベッドの上に置かれたままで、動くことはない。
呼びかけても、触れても、返事は返ってこない。
何も、返って来ないのだ。
それでもクロイドは冷たい身体となってしまったアイリスを抱きしめ、名前を呼び続けていた。
目を覚まして欲しい。
もう一度、優しい声で名前を呼んで欲しい。
新しい熱を返して欲しい。
空色の瞳で、自分を見つめて欲しい。
太陽のように温かな笑顔で自分を照らして欲しい。
ああ、言いたいことはたくさんあるのに。一番言いたいことは一つだけだ。
──ずっと一緒に生きると、言ったのに。
「置いていかないでくれ……っ」
縋るように、求めるように、恋焦がれるように。クロイドは涙を流し続けた。
アイリス、アイリス、アイリス。
何度も名前を呼んでは、押し殺すように涙を流す。耐えるように噛んでいた唇からは血の味がした。
頼むから、どうか──。神様がいるというならば、どうか。
彼女を、アイリスを、自分にとっての唯一人、最愛の人を。
どうか、救って欲しい。自分の命を捧げるから、彼女だけは──。
祈るようにクロイドは心の中で叫び続ける。それでも、心の底から本当に望んだのは、アイリスと共に生きる未来だ。
彼女の傍に立って、そしてお互いに笑い合えるような、そんな穏やかで優しい未来。特別なことなんて必要ない。共に居ることが出来るならば、それだけで良かった。
それ以上のことは望まない。むしろ、この願いこそが最上であり、もっとも贅沢な願いだと分かっている。
「アイリス……っ!」
悲痛な声で名前を呼んでも、自分の声が虚しく響くだけだ。
嘆いていても、意味はないし、名前を呼び続けても無駄だと分かっている。それでも、今だけはこの冷たい温度に寄り添わせて欲しい。
彼女がまだ、現実に居ることを認識していたかった。




