引き寄せるもの
遠くから、誰かが名前を呼んでいる気がした。
優しく、愛おしい声で自分を呼んでいる。
声がする方に振り返れば、金色の髪を緩やかになびかせながら、微笑んでいる最愛の君がいた。
彼女の唇がゆっくりと動いていく。
何と言っているのだろうか。
だが、それまで浮かんでいた笑顔はやがて、悲しみを含んだものへと変わっていく。
そして彼女は涙を一筋流しながら、静かに呟いたのだ。
「──ごめんね」
・・・・・・・・・・
「──ッ!」
いつの間に自分は気を失っていたのだろうか。クロイドは意識が覚醒したことを自覚しつつ、思い切りに起き上った。
白いベッド、白いカーテン、白い天井、そして自分が身に纏っているのは白い患者衣。
ここが医務室なのはすぐに分かった。医薬品の独特な匂いが鼻をかすめていく。カーテンの向こう側には他の患者や医務室の関係者が行き交っているようで、慌ただしさがあった。
クロイドは右手で頭を抱えつつ、何があったのかを思い出そうと試みる。
……確か途中で気を失って、それで……。誰かがここまで俺を運んできたのか。
だが、気付いてしまった。
大事な何かを喪失していることに。
「……っ!」
脳裏に浮かんだのは色を失くしたアイリスの表情で、両手に残っているのは彼女の冷たい身体を抱きしめた時の感触だ。
この手で確かに触れていたはずの彼女が傍にいない。
それを自覚してしまえば、クロイドは身体中から血の気が引いて行くのが感じられた。
「……アイリスっ!」
夢ではなかった。自分を庇うように守ってくれたアイリスの熱が失われる光景は、決して夢などではなかった。
いや、いっそのこと夢であって欲しいくらいだ。それならばどれ程、良かっただろうか。
クロイドはベッドから跳び起きてから、床へと足を着ける。だが、力が上手く入らないのか、ふらりと身体が大きく揺れて、床上へと倒れてしまった。
倒れる際にカーテンに身体が引っかかってしまったことで、天井から垂れていたカーテンを引きちぎってしまう。
大きな物音を立てたことで、すぐ傍に居たのか、医務室に勤めている誰かが慌てたように自分の名前を呼んだ。
「──クロイド君!?」
黒と白を基調とする服を着た、修道課のクラリス・ナハスが驚いた表情でクロイドの傍へとやって来る。
「まだ動いては駄目よ! あなた、身体中から出血して倒れていたのよ? 魔力だって、安定していないみたいだし、もう少し休んでおかないと……」
確かにクラリスの言う通り、クロイドは頭と身体中に包帯が巻かれており、治療を終えた後の状態になっていた。
少しでも動こうとすれば、血管が切れたような妙な感覚が身体を巡っていく。
それでも、クロイドは行かなければならなかった。
床の上に手を置いて、汗を滴らせつつ、顔を上げる。
「……ス」
「え?」
背中を支えようと、手を添えてくれていたクラリスはクロイドの呟きに対して、不安そうに訊ね返す。
「アイ、リ……ス……」
「っ……」
隣からは息を飲むような音が漏れ聞こえた。だが、クラリスは何も言わないまま、黙っているだけだ。
「アイ……リスが……。行か……なけれ、ば……」
這うように膝を進めてから、白い壁に手を添えて、クロイドは立ち上がる。
アイリス。
名前を呼べば、いつだって彼女の匂いが感じ取れた。
それなのに、今はどうして感じ取れる気配も匂いも薄いのだろうか。
「駄目よ、クロイド君。あなたはまだ……」
クラリスは泣きそうな程に悲しみを携えた表情を浮かべ、クロイドの目の前で手を広げて制止させようとしてくる。
それでもクロイドはクラリスの肩を押し返しつつ、無理に通ろうと歩みを進めた。
「……決めた、んだ……。守る、って……。俺が、アイリスを……」
守ると決めたのに。
それならば、自分はアイリスの傍にいなければならない。
微かに鼻先をかすめた匂いを辿るようにクロイドは個室を出て、廊下を歩き始める。壁伝いに歩いているため、歩く速度は遅い。
行かなければ。守らなければ。
心の中で、それだけが自分を動かしていく。
魔力は安定していないようだが、それでもクロイドは自分の身体に無理矢理に治癒魔法をかけてから、出血を抑えて行く。
身体中を巡っていく痛みも、魔法で感覚を鈍らせては麻痺させていった。
クラリスもクロイドの気概に圧されているようで、それ以上を口出しすることはなかったが、何が起きても大丈夫なように、すぐ後ろから付いて来てくれているらしい。
彼女の気遣いには感謝するが、お礼は後回しにしたまま、クロイドは無言で進み続ける。
この先に、アイリスが居るとは誰からも伝えられていない。それでもクロイドは自分を引き寄せるものを信じて歩き続けた。




