意志継ぐ者
イリシオスが深く悩んでいることに気付いたノーチェが、静かに声を上げる。恐らく、その情報をイリシオスへと伝えるかどうか迷っていたのだろう。
「……悪魔が行った古代魔法の犠牲者の中に、アイリス・ローレンスもいます」
「なっ……」
イリシオスは熟考をやめて、すぐにノーチェの方へと顔を上げる。イリシオスにとって、アイリスがどのような存在なのか、ノーチェはもちろん知っている。
アイリス・ローレンスは本来ならば、教団には入ってはいないはずの人間だった。
しかし、彼女は数年前に伝説級の魔物「魔犬」に家族を食い殺され、その復讐を果たすため、足掛かりを得ようと教団に入ってきたのである。
魔物に関わっていなければ、首都から離れた田舎で穏やかに、そして普通の女の子として幸せに暮らしていただろう。だが、アイリスは自ら剣を取り、茨の道を進むことを選んだ。
そんなアイリスのことをイリシオスは孫のように思っていた。それは恐らく、エイレーンの血が濃く流れているからだろう。
新しい赤子が生まれれば、ローレンス家の当主からはそれを知らせる手紙がこの塔へと届けられる。
十六年前もそうやって、アイリスの誕生を聞いては、塔から遥か彼方で生まれた彼女のこれからの幸福を祈っていた。
それでも現実は厳しく、穏やかに過ごせるはずだったアイリス・ローレンスの人生は大きく変わってしまう。
だからこそ、新しい居場所を得られた彼女が幸せに生きることを静かに祈っていたのに──。
「アイリスが……悪魔の魔法に……?」
「他の団員と同じように魂を引きはがされた状態となり、今は医務室で横たわっているそうです」
ノーチェはこのことをイリシオスに話すべきか悩んでいたのだろう。だが、従順である彼女はイリシオスにとって知りたい情報を隠すようなことはしなかった。
アイリスのことを特別視していると言われれば、確かにそうなのだろう。かつての友人達の血を受け継いでいる彼女をイリシオスはどこか愛おしい目で見つめてしまう節があった。
それ故に、アイリスまで犠牲になっていると知って、衝撃を受けないわけがなかった。
「アイリス、が……」
つい先程、通信用の水晶を使って、お互いに会話をしたばかりだった。それなのに──。
ふらり、とイリシオスの身体が揺れたのを感じ取ったノーチェはすぐさま、駆け足で近寄ってきてから、両手で小さな身体を受け止めてくれた。
「イリシオス様、お気を確かに……」
「……」
ノーチェはそのまま、イリシオスの身体をソファの上に座らせる。立ったままにしておくよりも、座った方が安全だからだ。
……混沌を望む者は意図的にアイリスの魂も身体から引きはがしたのか?
不老不死と呼ばれているこのイリシオスを表に出すために、最後のローレンス家の人間であるアイリスを人質に取ったというならば、何とも性格が悪い奴だと言うしかない。
イリシオスにとって、アイリスがどういう人間なのか分かってやっているならば、彼らのその手腕を褒めるべきか恨むべきか悩むところだ。
決断をしなければならない。
この教団、国、人にとって、何が最良となるのか。
……本当ならば、「不老不死」が存在していることが間違いじゃ。わしがいなければ、ブリティオンのローレンス家も愚かなことをしようなど、思うこともなかったかもしれぬ。
ブリティオンのローレンス家に属する悪魔が教団を襲ってきた理由は間違いなく自分だ。アイリスが目的ならば、教団の結界の外へと出ている瞬間を狙うに違いない。
わざわざ大々的に教団を狙い、そしてどちらの力が強いのかを明確に示しつつ、人質の命を提示してくれば、普段は塔から動くことはないイリシオスとて、動かざるを得ないと思っているのだろう。
策としては向こうが一枚上手のようだ。
……わしが不老不死ではなかったならば。
そのようなこと、何千回、何万回も考えては首を振ってきたではないか。
それならば──何を守るべきなのか、優先すればいい。
自分か、大切な者達か。
その二択ならば、自分は簡単に選ぶことが出来る。
……だが、わしの血がブリティオンのローレンス家に渡ったとなれば、状況が悪化するじゃろう。
この血には表に出すことが出来ない程のおぞましい古代魔法さえ記録されている。
血の記憶を消すことが出来るならば、喜んでこの身を差し出そう。この身を可愛いなどと思ったことは一度もない。だが、血を渡した後に状況が悪化するのだけは避けたかった。
「守るべきは……」
イリシオスは唸るように悩み続ける。
総帥として、いや──ウィータ・ナル・アウロア・イリシオスという一人の人間として、自分は選ぶべき場所に立っている。
ソファに座っていたイリシオスはゆっくりと立ち上がる。
そして、ノーチェの方へと振り返ってから、一言告げた。
「ノーチェ」
「はい、イリシオス様」
ノーチェはきっと、自分がどのような決断をしても、付いて来ると言うのだろう。だが、それは彼女の使命感からではなく、ノーチェ自身が選んだ選択だ。
選ばなければならないというならば、選んでみせようではないか。
「わしは塔から下りる」
「……」
「今から、このウィータ・ナル・アウロア・イリシオスが指揮を執る。全ての団員に伝えるのじゃ。夜が明け次第、我が声が聞こえる場所へ集え、と」
「……かしこまりました」
ノーチェは頭を深く下げてから、イリシオスに背を向ける。だが、部屋の扉を閉める手前で彼女は立ち止まった。
「イリシオス様」
「何じゃ」
「私はあなた様の決断ならば、どのようなものでも肯定致します。そして、どこに向かわれようともお供致します」
「……。最期まで付いて来るのはおすすめせぬぞ? わしが辿り着く場所はきっと地獄の最果てじゃ」
「そうだとしても、私はお供致します。それが私自身の望みです」
「……」
「それでは失礼致します」
ノーチェはもう一度、イリシオスへと頭を下げてから部屋を出て行った。再び静けさが生まれて行く空間に響くのはイリシオスの溜息だ。
「……この決断を愚かだとは言わせぬぞ、悪魔よ」
小さな掌をぎゅっと握りしめ直してから、イリシオスは顔を上げる。
「我儘だと言われるかもしれぬが……。わしはお主達が守りたかったものを全て守ると決めたからな」
誰もいない空間に向けて、イリシオスの独り言が呟かれる。
それでも、大切だった友人達が傍にいたならば、きっと仕方なさそうに笑ってくれるに違いない。そして、自分の決断を静かに肯定してくれるのだろう。
「ロア、ミリシャ、クシフォス、──エイレーン」
かつての友人達の名前を呪文のように呟く。名前を呼べば、近くに来てくれる気がして、イリシオスは届かないと分かっていても呼んでしまうのだ。
たとえ、いなくなろうとも、心の中には存在している。
胸元に手を添えつつ、イリシオスは数度、呼吸をし直してから天を仰いだ。
意志は継いだ。
自分は、それを後世へと伝えて、繋ぐ役目だ。
繋ぐために、自分が存在しているならば、「不老不死」であることも捨てたものではないだろう。
だからこそ、この先に待っているものを怖いとは思わなかった。
「──守り切るぞ」
誰かに対して呟いた言葉ではない。それでも窓は開いていないはずなのに、空気が何となく揺れた気がした。




