総帥の立場
結界によって守られている塔の最上階で、「嘆きの夜明け団」の総帥であるイリシオスは何かが起きていることをすでに察していた。
教団内に魔物が突如として出現していることは知っている。そして、その魔物が元は人間の可能性があることも。
この情報は団員達に通達されているだろう。その上で、魔物と戦うことを心苦しく思っている者もいるかもしれない。
だが、現段階では魔物になってしまった人間を元に戻す方法は、千年生きて来た魔女であるイリシオスでさえ、得てはいなかった。
「……」
耐えることしか出来ない自分の身を何度、恨んだことだろう。塔の外に出たくても、容易く出来ることではない。
以前はブレア同伴のもと、この足を塔の外へと伸ばすことがあった。
しかし、それはブレア・ラミナ・スティアートという、教団が誇る「刃」の名を持つ彼女が傍に居たからだ。
全ての魔力を可視化することが出来る瞳を持っている彼女はいわば、最強の盾であり剣だ。それ故に、ブレアが傍に居る場合ならば、イリシオスが外を出歩いても危害が届くことはない。
また、絶対的に遠くに行かねばならぬ事態には、式魔で自分そっくりの身代わりの人形を作り、そこに通信用の水晶を埋め込んだものを「イリシオス」として使用していた。
この身代わりの人形は関節の動きに多少問題はあるが、服を着ることによって不自然さは消えてしまう。それほどに精巧に作られた人形なのだ。
……あの人形がもう一体あれば……。
身代わりとして使っていた式魔の人形はエリオス・ヴィオストルとブレア、その他の魔法使い達が共同で作ってくれたものだ。
二体とあるものではないため、今は本物であるこの身一つしかない。すぐ作れるものでもなく、そのような暇もないだろう。
イリシオスは本来の歳に似合わぬ小さな両手をぎゅっと握りしめる。
本当ならば心の赴くまま、塔の外へと足を運びたいくらいだ。
自分にとっては大事な教え子でもあり、子どもでもあり、そして──この教団を共に創った友人達の意思を受け継いだ者達が教団内で戦っているのだ。
総帥でありながら、魔力を持たぬ存在とされているため、自分は容易に動くことは出来ない。
それでも、被害報告などが入ってくるたびに、胸の奥が痛んで仕方がなかった。
そして自覚するのだ、自分は何と無力なのだろうかと。
報告によれば、此度の襲撃は前回と同じくブリティオンのローレンス家に属する悪魔「混沌を望む者」によるものだと聞いている。
彼は転移魔法陣を自在に操り、様々な場所へと出没しているらしい。そして、とうとう奴はこの塔の結界を破壊しに来たようだ。
約十数分前に塔全体が大きく振動し、爆音のような激しい音が響き渡っていたが、恐らく塔の結界が破壊された音だろう。
それどころか、建物自体も破壊されてしまっているのかもしれない。
まさか、こうやって一つずつ結界を破壊しながら、最上階まで上って来るつもりだろうか。
この塔は何重にも結界が張り巡らされているし、様々な魔法が施されている特殊な建物だ。
だが、ハオスは全てを無視するように力技で無理矢理に破ってきたに違いない。その際に、どれほどの魔力が使用されたのかを想像するだけで吐き気がした。
ハオスはまともではない。更に言うなれば、ブリティオンのローレンス家も、だ。
比較的にブリティオンの組織「永遠の黄昏れ」はまだ、まともな神経を持っているのだろうが、ローレンス家を恐れているため、所属している魔法使い達は従うしかない状態なのかもしれない。
状況は百年程前よりも悪化していると言えるだろう。
元々、ブリティオンのローレンス家は純血統を重視する魔法使いの家として有名だったが、ここ数年程で更に力を伸ばしてきたように思える。
それは恐らく、「エレディテル・ローレンス」という男が当主の座に就いた頃辺りからだ。
……調べようとしても、全てが靄に覆われたように見通すことは出来ぬ。一体、ローレンス家は何を考えておるのじゃ……?
セリフィア・ローレンスをこの地へと送り込んできた時、エレディテル・ローレンスはアイリスと婚姻関係を結ぼうとしていたことは分かっているが、その後の個人的な接触はないと聞いている。
先日、ブリティオンの組織との話し合いの場にセリフィア・ローレンスは当主のふりをして現れていた。
推測でしかないが、あの場に居た魔法使い全てを抹殺し、イリシオスの血液を回収するようにと指示されていたのだろう。
だが、アイリスの姿を瞳に映したことで何故か激しく動揺し、結局は逃亡していた。
そこに「エレディテル・ローレンス」の命令があったとは思えなかった。恐らく、セリフィア自身が逃げることを選んだように思える。
接触する機会だったにも関わらず、セリフィアはアイリスから遠ざかったのである。
……心が覗けるならば、真意を問うために覗いてみたいものじゃ。
セリフィアが使用していたとされる「心身接触」の魔法は、イリシオスも知っている。
人の心、魂、感情に干渉する魔法はありとあらゆるものを知っていたが、それを表に出すことはない。この手の魔法はあくまでも最後の手段だ。
「……」
通信用の水晶は魔力障害が起きているのか、繋がったり、途切れたりするだけで、誰かに呼びかけることも出来ない。
それは恐らく、塔を囲っている結界が関係しているのだろう。
……現場に出ることが出来るならば。
だが、それは自分の身を敵方へと差し出す方法にしかならないだろう。
彼らが欲しているのは、千年分の知識、技術、歴史、魔法と言った、あらゆるものが記憶として刻み込まれたこの不老不死の身体、もしくは血液だ。
自分は生きた辞書のような存在だと自覚している。辞書の中には良い事も悪い事も、何もかもが詰め込まれている。
だからこそ、自分の立場は理解しているつもりなのだ。例え、心が張り裂けそうな程に痛んでいるのだとしても。




