究極の天秤
ハオスが発した、冷めた声が広間の中に広がっていく。団員の誰もが顔を青ざめ、そして悪魔が出して来た要求に戦慄していた。
仲間である団員と守るべき一般市民、そして王家の命を守るか、それとも──不老不死であるイリシオスの命を守るか。
悪魔は究極とも呼べる天秤を軽々と差し出してきたのだ。
選ばなければ、失われる。だが、失うわけにはいかないものばかりで、簡単に答えを出すことなど出来なかった。
……イリシオス総帥に訊ねれば、もしかすると『絶無の檻』の魔法に関することを知っているかもしれない。だが……。
クロイドはハオスに焦りを覚られないように平静を装いつつ、訊ねることにした。
「随分と身勝手な要求だな。だが、一般市民や王家の人間を人質に取っているというが、どうするつもりだ。まさか、お前が飼っている魔物を無造作に、市街や王宮に放つつもりではないだろうな?」
クロイドは無表情のまま、試しに鎌をかけてみる。果たして、ハオスは正直に話すだろうか。
クロイドがじっとハオスの様子を睨むように窺っていると、意外にも彼はにんまりと笑い返してきた。
「──ご名答」
「……」
どうやら、クロイドの読みは当たっていたようだ。顔を顰めそうになるのを抑えてから、ハオスの言葉が続けられるのを待った。
「教団内だけでなく、市街、そして王宮に魔物を放てば、混乱どころではないだろうな。それこそ、この教団の存在さえも危うくなる。……いや、もしかすると国だって亡びるかもしれない」
いかにも面白いだろう、と言わんばかりの声色でハオスは脅しとも呼べる言葉をつらつらと並べて行く。
自分がどのようなことをしようと思っているのか、そのことに関する配慮など全く持ってはいないと言うような態度だ。
他国の魔法使いに属している悪魔が、イグノラント国内に魔物を放つなど、傍から見れば戦争行為に等しいだろう。
ハオスも恐らく、それを理解している上で仕掛けてきているのだ。
戦争となれば、魔法使い同士の抗争に留まらず、国家間の問題にまで発展していくだろう。そうなってしまえば、国家の陰に隠れていた教団の存在が表舞台に出てしまうに違いない。
「ああ、もちろん、返答は今すぐしなければならないわけじゃないぜ? 俺だって、それくらいの慈悲は持っているからな。そうだな……明日の夜中十二時ぴったりにこの場所に来るから、その際に答えを聞こうか。ウィータ・ナル・アウロア・イリシオスを差し出すというならば、彼女一人がこの場所に来るように伝えておけ。もし、他の魔法使いを同伴させたり、偽物を寄越そうなんてことは考えるなよ? 交渉が決裂した際には容赦なく教団内、市街、王宮に魔物を放つから、その心積もりでいろよ」
この悪魔はきっと言葉通りに残虐な行為をするつもりなのだろう。だからこそ、直接的に持ち掛けられた交渉が偽りなどではないとクロイドは分かっていた。
もしかすると自分達が知らないうちに市街と王宮のどこかに、魔物を侵入させるための経路を作っているのかもしれない。
一般人が多い市街や王宮に魔物が闊歩すれば、倒す術を知らない人間は簡単に餌食になってしまうことは安易に想像出来た。
だが、不老不死であるイリシオスの血を渡せば、更に悲惨なことが起きるかもしれない。目の前の悪魔の考えが分からないからこそ、その場に居る者達は呆然とするしかなかった。
「クロイド」
個人的に名前を呼ばれたクロイドは不快感を露わにしたような表情を浮かべつつ、ハオスを見上げる。
「アイリスの魂を取り戻したいと思うなら、何を犠牲にすればいいか、分かるだろう?」
「……」
問いかけられても、クロイドは答えない。アイリスのためにイリシオスの命を捧げるようなことをすれば、きっと自分の大切な人は嘆くだろうと分かっているからだ。
クロイド自身もイリシオスを犠牲にしようなんてことは考えていないため、ハオスからの問いかけに思わず吐き気がした。
……アイリスはそんなこと、望んでいない。だが……。
何もしない状態が続くならば、アイリスの身体から引きはがされた魂はハオスに囚われたまま、そして──やがて、身体にも影響が出るのだろう。
ぎりっと奥歯を強く噛みつつ、クロイドは何も答えずにハオスを睨み続けるだけに留めた。
「ふっ……。まぁ、何が最善なのか、少ない脳みそでしっかりと考えることだな。答えは明日、聞かせてもらうから、良い返事を待っているぜ?」
「っ、待て!」
ハオスはぱちんと指を鳴らす。それまで空中に浮かんでいた水鏡は一瞬で消え去り、そしてハオスの足元からは緑色に光る魔法陣が出現した。
その魔法陣は何度も見たもので、ハオスがどこかに転移する気だとすぐに気付く。
また明日と言いながら、ハオスの身体は魔法陣の中へと消え去っていく。
だが、ここで勝手に自己判断して、状況が悪くなることを考えてしまったクロイドは唇を噛みながら、空を切る右手を振り下ろした。
「くそ……」
苛立ちが込められた言葉が広間内に響いていく。それまでは激しい音が響き合っていた広間は、ハオスが居なくなったことで、生々しい静寂が生まれていた。




