怒りの熱
「──あーぁ……。アイリスもこの中に混じっていたのか。ちぇっ……面倒なことになったな」
アイリスを抱きしめたまま動かないクロイドの頭上から、面倒くさげに苦々しく呟く声が響いた。
その声に、このまま一緒に死んでしまおうかと考えていたクロイドの意識は現実へと引き戻されていく。
「もう少し、周囲を確認しておけば良かったな……。うーん……。エレディテルの奴に怒られないといいけれど……」
ぶつぶつと呟くハオスの言葉は保身を望むようなものだった。
……ああ、そうだ、思い出した。どうして、アイリスがこんな姿になってしまったのかを。
それまで、悲しみと嘆きによって支配されていたクロイドの身体の内側には、ゆっくりと熱が宿り始める。
クロイドの身体に巡る血管に、自覚できる程の熱が宿り、それはやがて「怒り」へと変わっていった。
「……お前が」
熱を与えるように抱きしめていたアイリスの身体を横たえて、攻撃が及ばないようにと結界を張ってから、立ち上がる。
宿ったのは怒り。
そして、激しい殺意だった。
自分がこれほどの感情を持っているとは知らなかった。いや、これは自分だけの感情なのではないのかもしれない。
自分の中に宿っているもう一つの力──魔犬の魔力が膨張しては、クロイドの身体から漏れ出るように零れた。
「……へぇ?」
頭上で浮かんだまま、ハオスは何故か目を見開いてから嬉しそうな顔をする。
だが、クロイドはそんなハオスの様子を気に留めることなく、一歩、一歩と歩みを進める。
身体中が熱くて仕方がなかった。
それまでは嘆きによって感情が支配されていたのに、今はハオスを殺したいと思う強い意思で覆われている。
これは本当に自分の身体なのだろうか。まるで空っぽだった身体に誰かの魂と魔力が注ぎ込まれているような心地だ。
「……ああ、そうだったな。お前は呪い持ちだったか」
「……」
クロイドの周囲はばちばちと火花が飛び散り、舞っている塵を瞬時にこの世から消していく。風などその場には吹いていないというのに、クロイドの黒髪はふわりと揺れるように動いていた。
……──殺してやる。
そう、心の中で呟いたのは自分と──魔犬の血、一体どちらだっただろうか。
呪文を唱えることなく、クロイドは殺意だけで瞬時に魔法を放った。
今の自分の身体が魔具のような状態と同じであることを理解しないまま、無自覚に「魔犬」の力を使っていたのである。
無動作、無詠唱のままで、放たれた魔法はハオスの頭上で大きな氷の塊を形成していく。
「げっ」
クロイドの魔法に気付いたのか、ハオスは巨大すぎる氷の塊に向けて、指を鳴らした。
氷の塊はたちまち、雪のような状態へと姿を変えたがクロイドの意思によって、その形はやがて目にもとまらぬ速さで別の形状へと変わっていく。
指の大きさ程の氷のナイフが形成され、その刃先はハオスへと向いていた。
氷のナイフはクロイドからの号令を受けずに自分の意思を持っているように、勢いよくハオスへと向かって行く。
「あーっ、もう……」
ハオスはすぐに結界を展開したようで、氷のナイフは結界に直撃しては塵となって空気中に消えていっていた。
もはや、怒りによってクロイドの意識は侵食されており、ハオスを殺すこと以外は考えていなかった。
どんな手段でもいい。
ただ、目の前に居る悪魔をどうしても屠ってしまいたかった。
「魔力と時間の無駄だぞー」
ハオスは自身を守る結界を維持したまま、指をぱちんっと鳴らした。
次の瞬間、クロイドは見えない空圧によって、床に縫い付けられるように押し倒され、うつ伏せの状態で動けなくなってしまう。
「がぁっ……」
無理に身体を動かそうとすれば、床に張り付く身体に痛みが返ってくる。
だが、それでもクロイドは何とか立ち上がろうと、身体中に魔力を巡らせて、そして一気に放出させるように爆散させた。
ばんっと空気が破かれた音と共に、クロイドの拘束は解かれる。無理に拘束を解いたことによる衝撃で、クロイドの身体からは血が流れ出ていた。
反動によって頭を少し切ったのか、一筋の赤い線が縦に流れて行く。
腕や足にも傷を負ったというのに、クロイドは一切気にすることなく、ただ凪のような瞳でハオスを睨み続けた。
すると、ハオスはそんなクロイドの様子から、何かに気付いたようで、にやりと意地汚い笑みを浮かべたのである。
「……クロイド。お前、瞳が金色になっているぞ」
「……」
瞳が金色になっていると言われても、クロイドにとってはどうでも良かった。金色の瞳を持つのは魔犬の特徴だ。
もしかすると、魔犬の呪いと自分の身体が完全に融合しつつあるのだろうかと普段ならば考えるだろう。
だが、今のクロイドはアイリスの仇を取るためだけに怒りを燃やしている状態に過ぎず、冷静な判断が出来ずにいた。
たとえ自分の身体がどうなろうとも、アイリスの仇は絶対に取る。それだけのために動いているに過ぎなかったからだ。
クロイドの中に宿る怒りの熱は更に燃え上がっていく。もはや、今の彼を止めることが出来る人間など、この場にはいなかった。




