無の殺意
「まぁ、いいさ。今日の目的はお前達じゃないからな。こういうことは、欲張らずに順番を守りながら遂行しないとな」
ハオスは無動作のまま、空中に糸で釣り上げられるようにすっと浮かび上がっていく。
「これだけの魔物を……しかも、人間だったものを紛れ込ませて、一体何を考えているんだ」
クロイドが激しい感情を胸の内に抑え込みつつ、ハオスへと吐き捨てるように問いかける。
「おっ? 俺が用意した魔物が元人間だって気付いていたのか。そりゃあ、大したもんだ。見直したぜ」
明らかに馬鹿にするような声色でハオスは鼻で笑っていた。
「二度と人間には戻れない魔物を何も知ることなく敵として狩る人間……。くっ、愚か過ぎて腹が痛くなりそうだぜ。くっははははっ……!」
「っ……。この外道が……」
ハオスの愉快げな笑い声がその場に響き渡っていく。彼は人間を魔物に堕とすことさえ、何とも思っていないのだろう。
それこそ、セプス・アヴァールと同種の思考を持っている輩だと言える。
自分以外の者はどうでもいい存在で、そして自分の手で好き勝手にしてもいいと見下している。
アイリスは身体の奥底から燃えるように熱い感情が沸き上がって来るのを何とか堪えようと、両足で踏ん張りつつ、指に爪を立てていた。
「何とでも言うといい。何せ、俺は悪魔だからな! ははっ……。その憎悪と嫌悪が入り混じったような表情、本当に愉快な気分にさせてくれるぜ」
何を言っても、ハオスを止めることなど出来ないのだろう。むしろ、慈悲深い心を持っているような輩ならば、誰一人としてアイリスの前で死なずに済んだのだから。
こいつだけは許せない。
アイリスの中の全てがそう訴えている。
瞬間、アイリスは音を立てることなく、地面を蹴り上げていた。
相手に動きを一切覚らせることなく、音も影も、──殺意さえも消したまま。
月の明かりによって反射する長剣の刃を背中に隠すように持ちつつ、アイリスは一瞬にしてハオスの目の前へと跳び上がる。
獲物を仕留めるために殺意を表情に映すことなく、アイリスは無のまま、ハオスへと刃を振り下ろした。
「──っ!?」
アイリスの動きを把握していなかったハオスは咄嗟に身体の上体を逸らすことで、ぎりぎりの距離で剣から逃げたようだ。
それでもアイリスの刃はハオスに届いていたようで、彼の長い黒髪のひと房を長剣で斬り落としていた。
頭と首を狙ったにもかかわらず、掠ることさえ出来なかったアイリスは内心、舌打ちをする。
そして、仕留め損ねた獲物を惜しむように睨み、そのまま重力に逆らうことなく落下していき、地面へと着地した。
「こっ、の……! 危ねぇだろうが!」
頭上ではアイリスの攻撃を何とか避けたハオスが右手を振り上げて、非難する声を発していたが、アイリスは無視したまま冷めた表情で彼を見上げていた。
「……次は、仕留める」
今、ここでこの悪魔を仕留めなければ、何かしらの大きい被害が出るだろうと予測していた。
ハオスはまだ、何かを企んでいる。それならば彼が手を打とうとする前に、その首を獲らなければならない。
これ以上、誰かを悲しませるわけにはいかないのだから。
「ったく、ローレンス家の奴は温和そうに見えて、血の気が多い奴ばかりだから困るぜ……」
ハオスは呆れたような表情を浮かべつつ、わざとらしく肩を竦めていた。
「まぁ、ローレンス家は他人の血の上を歩いているような奴ばかりしかいないからな」
「……何ですって」
ローレンス家の全てを侮辱するような発言に、アイリスは額に青筋を浮かべる。だが、ここで挑発に乗ってしまえばハオスの思う壺だろう。
出来るだけ冷静なまま、そして絶対的に「殺せる」瞬間が訪れるまで、血を高ぶらせるわけにはいかないのだ。
「俺のことが殺したくて仕方がないだろうなぁ、アイリス? その憎しみと怒りこそが俺にとっては糧になっているというのに憐れなものだ」
「──黙れ」
「考えてもみろ。お前が関わった奴らが一体、どうなったのかを。そして、どんな最期を送ったのか。……みーんな、お前が関わっていなければ、巻き込まれずに済んだと思ったことはないか?」
「黙れ」
「自分が関わってさえいなければ、まだ生きていた人間だっていたかもしれない。これから死ぬかもしれない奴らを見ることなんて、ないかもしれない。それなのに、自分が関わってしまったせいで、何も罪を犯してはいない者が次々と死んでいく……。なぁ、その身を呪っちまえよ、アイリス。お前は俺やブリティオンのローレンス家が全て悪いということにして、自分の責任を転嫁したいだけなんだよ。……全ては『アイリス・エイレーン・ローレンス』の存在が悪いんだからさ」
「黙れっ──!」
耳障りとも思えるハオスの言葉が脳内に反響していく。
全て、自分が悪い。
そんなの、何度だって思ったことだ。
思って、考えて、後悔して、立ち止まって、そして──自分の存在を呪ってしまいたかった。
自分さえいなければと思った。
けれど、動けないことなんて、自分には出来なかったのだ。進まない選択肢など、自分にはなかったのだ。
ローレンス家の人間は他人の血の上を歩く──まさに、その通りだと思う。
だが、自分は進まなければならない。この背中に課せられる全てを背負い、前を向き、今まで繋げてきたものを次へと繋ぎ続けるために。
自分が進む道は果てしなく続く先まで血で濡れて、茨で覆われているだろう。それでもまだ見ぬ夜明けを、迎えるためには全てを背負い込んで進まなければならないのだ。




