挑発
だが、いつまでも逃げ続けるようなハオスではなかったようで、彼は一瞬の隙を見つけると、右手の指でぱちん、と音を鳴らした。
瞬間、宙を舞うように動いていた氷の剣は瞬時に粉末状の姿へと変わっていき、はらはらと雪のようにその場に落ちて行った。
その雪は攻撃性が全く感じられない柔らかなもので、アイリス達の身体や地面の上に舞い降りては静かに溶けて消えて行った。
「──はぁ。やれやれ……。全く、短気なもんだぜ。顔を合わせた途端に襲い掛かってくるんだから。本当、お前らってば似た者同士だよな」
ハオスはわざとらしく肩を竦めながら、先程と同じく、頭上に浮かんだままアイリス達を見下ろしてくる。
「問答無用で攻撃を受ける理由がお前にはあるからだろう。……これまでお前がしてきたこと、全てを洗いざらい吐かせてやる……!」
「血が上っているなぁ、クロイド」
「誰のせいだと思っている」
クロイドは右手をハオスの方へと向けて、瞬きをすることなく呪文を唱えた。魔具の手袋をはめているクロイドの右手からは、火花のようなものが無数に散っては空気中へと消えて行っていた。
そんなクロイドの姿を見て、ハオスは何故か嬉しそうににやりと笑ったのである。
「……さすがはローレンス家の血が半分は流れているだけはあるな。あいつに一番近いのは案外、お前かもしれないな、クロイド」
あいつ、とは一体誰のことだろうか。もしかするとエレディテル・ローレンスのことだろうか。
確かにローレンス家出身の自分よりも、魔力が高いクロイドの方がローレンス家らしい力を持っているだろう。
彼には半分、ローレンス家の血が入っているので、ある意味アイリスだけでなく、ブリティオンのローレンス家とも遠い親戚だと言える。
「何を言って……」
だが、次の瞬間、ハオスの姿はその場からふっと突然消え去ったのである。
「っ!?」
アイリスとクロイドは瞬時に周囲を見渡してから、ハオスがどこに行ったのかを探ろうと試みる。
「──でもまぁ、それでも力の本当の使い方を知らない素人には変わりないからな」
馬鹿にするような声が聞こえたかと思えば、真後ろに気配を感じたため、アイリスは振り返りつつ、握っている長剣で薙ぎ払うようにハオスへと攻撃を仕掛ける。
だが、アイリスの長剣が切り裂いたのは空間だけで、虚しさだけが手元に残る。
「くっ……。はははっ……! 無理だって、お前らの力で俺の首を刎ねることなんて出来ねぇよ」
いつの間にか、ハオスはアイリス達から距離を取った地面の上に出現していた。恐らく、転移魔法を使って、移動していたのだろう。
自在に移動出来る術を羨ましいとは思うが、それでも相手に使われるとこれほど、面倒なことこの上ないだろう。
「……あなたはそうやって、逃げてばかりなのね」
「……ぁ?」
アイリスは血に濡れた長剣を真っすぐ、ハオスへと向ける。もちろん、生身の自分が簡単に勝てる相手ではないと分かっている。
それでも、この刃は相手の意思に逆らうための牙だ。
自分は決して、相手の思惑に屈したりしないという意思表示だった。
「最初に会った時から、いつもそう。……あなたはいつだって逃げてばかりだわ。自分以外の人間の手を汚させて、高みの見物でもしているつもりなのかしら? ……私達に厄介事を持ち込むだけ持ち込んで、あとは知らない顔が出来るなんて、随分と顔の皮が分厚いのね。……ああ、もしかして、顔の皮だけが分厚過ぎて、本当は自分が犯した罪の重さを理解するための頭を持っていないんじゃないの?」
「……」
ハオスの表情が少しだけ無機質なものへと変わった気がした。アイリスの挑発を挑発として認識出来る頭は持っているようだ。
「……種の底辺に居るような奴に言われると、妙に腹が立つなぁ?」
その場の空気が次第に変化していったのか、やけに生暖かい風がアイリス達の脇を吹き通っていく。恐らく、これはハオスから漏れ出ている怒気だろう。
だが、アイリスには「ハオスに殺されない」自信があった。それは以前、ブリティオンのローレンス家は自分のことを必要としていると言った発言を聞かされていたからだ。
恐らく、クロイドもアイリスと同じような立場であるため、この場で殺されるようなことはないだろう。
案の定、それまで怒りを身の内側から漏れ出していたハオスは、まるで空気がしぼんで行くように覇気のない状態へと変わっていく。
「ちっ……。ここでお前らの首を取れないことが残念だぜ。お預けするにも限度あるってのによぉ……」
苛立っているようだが、それでも彼の中で優先順位が決められているようで、アイリス達に牙を向けることはなかった。
本当ならば、ハオスの性格上、アイリス達のことを殺したくて仕方がないのだろう。
……エレディテル・ローレンスの命令だけを聞くようになっているならば、このハオスを従えているエレディテルという人間はきっと「普通の魔法使い」ではないでしょうね。
それは恐らく、良い意味でも、悪い意味も込めて。
只者が常軌を逸しているこの悪魔を抑えられるわけがない。
それならば、ハオスの主であるエレディテル・ローレンスという人間は常人の力を持っている魔法使いではないとすぐに察することが出来た。




