感覚遮断
教団内に突如として異変が起きて、すでに日付は変わっていた。
それでも現状を変えるような情報を掴むことは出来ないまま、教団内に出現する魔物を狩り続ける団員達が行ったり来たりしている姿を何度も見かけていた。
それぞれの顔色には焦りと疲れの色が見えていたが、個別に休憩を取りつつ、魔物討伐に専念しているのだろう。だが、現状は数時間前と何も変わってはいなかった。
この状況はいつまで続くのだろうか。恐らく、誰しもが思っているだろう。
転移魔法陣で出現する魔物の数は明らかに異常で、中には狂暴過ぎる魔物もいたという情報も届いている。
それでも、怪我人はいても今のところは死に至る重傷を負っている者がいないのは不幸中の幸いだろう。
前回の教団襲撃から学んだ団員達は次に同じようなことが起きた場合を想定していたのか、ほとんどの者が冷静に対処出来ているようだった。
「……」
クロイドは悪魔「混沌を望む者」の魔力や匂いを辿っているようだが、それでも追いつくことは出来ずにいた。
様々なところにハオスの形跡は残っているものの、転移魔法陣を頻繁に使って移動しているようで、姿を見ることさえ出来ないままだ。
「……まるでこちらの動きを予測して、行動しているみたいだな」
「そうね……。掌の上で転がされているような気分だわ」
アイリス達は教団内を見回りしつつ、魔物から逃げ遅れた非戦闘団員を助けては、魔物を討伐することに集中していた。
食堂や大図書館、寮などには残っていた非戦闘団員が逃げ遅れており、彼らを安全な場所まで届けては再び魔物討伐へと向かうことを繰り返していた。
その中にミレットの姿を探したが、彼女はどうやら先に情報課の方へと避難しているようで、今は他の団員達と協力しながら、この状況を打開するための方法を模索しているらしい。
「……せめて、結界の外へと行き来する方法が見つかればいいんだが」
「結界を維持したまま、外へと出入り出来るならば、他の団員とも連携が取りやすくなるでしょうね。それに私達がこうやって結界の中に閉じ込められている間にも、一般市民に被害が及ばない可能性がないとは言い切れないし……」
外から教団内へと入ることが出来ない魔物討伐課の団員達が協力して、街中を見回ってくれているようだが、彼らにも休息は必要だろう。
それに、外に居る団員達だけで対処出来ない場合が起きてしまっては遅いのだ。
「……教団内の隠し通路を知っている人がいれば良いんだが」
クロイドの悔しげな呟きにアイリスも首を縦に振り返す。
「ブレアさんでさえ、知らないみたい。……総帥ならば知っているかもしれないけれど、私達だけでイリシオス様のところに行くことは出来ないし……」
「そうだな。せめて、黒杖司か黒筆司が知っているならば……」
すると、魔物の気配を感じ取ったのか、クロイドの顔が瞬時に険しいものへと変わっていった。
アイリスもその場に漂う空気が少しだけ淀んでいった感触を感じ取り、すぐに長剣を構え直す。
幸いにも自分達が立っている場所は開けている。建物と建物の間の空間であるため、ここは室内ではなく外だ。
つまり、室内よりも十分に動くことが出来る上に戦闘が行いやすい場所だった。
薄い緑色に光る魔法陣がアイリス達の前方に突如として出現し、やがて中央から黒い影が地面を揺るがすような音を立てながら這い上がってくる。
「っ……」
「これはっ……」
アイリスとクロイドは数歩ほど後ろへと飛び下がり、魔具を構えた。
地面から湧き出るように顔を見せたのは、頭が角の生えた豚で身体は毛むくじゃらだが、人間のような痩躯の魔物だった。
そして、その魔物の匂いは普通の嗅覚を持っているアイリスにさえ、かなり強烈なもので、この世のものとは思えない異臭を纏っていたのである。
「……まるで、地獄から這い上がってきたような匂いだわ」
鼻が利くクロイドは左手で口と鼻を押えているが、それでも苦しそうに顔を顰めていた。
「クロイド……」
「俺なら、大丈夫だ」
そうは言っているものの、匂いが苛烈過ぎて呼吸することさえも辛そうだ。
「一時的に感覚を遮断する魔法を使ってみたらどうかしら」
「そうだな」
感覚遮断の魔法は主に重傷を負っているものに使われる魔法だ。感覚を鈍くしたり、痛覚を失くすことで、一時的だが身体を麻痺させることが出来る魔法である。
しかし、怪我を負っていない場合に扱えば、自分が新しい怪我を負ったことさえも気付かないため、通常の場合で使用されることはほとんどない。
「……我が身に伝う一切を全て退けよ──感覚遮断」
クロイドはどうやら感覚を遮断する魔法の中で、最も効果が柔らかいものを選び、すぐにその身へとかけた。
アイリスにも魔法をかけてくれたようで、それまで鼻の奥へと入っては引き裂くようだった匂いは今まで存在していなかったように、すぐに消し去っていった。
「ありがとう、クロイド」
「いや」
クロイドはやっと息をすることが出来たと言わんばかりに溜息を吐いていた。よほど、彼の鼻に堪える強烈な匂いだったのだろう。




