身を堕とす
……これが、セリフィアが言っていたことだというの?
セリフィアはアイリスに何かが始まるようなことを先日、口走っていた。もし、彼女が言っていた件がこの教団襲撃を表していたというならば──。
「──ねえ」
ライカの声色が途端に変わっていく。
「いるんですか、その人。僕達を……こんな姿に堕とした人が、教団内に今、来ているんですか?」
気付けばライカの瞳はいつの間にか青く光っていた。その眼光は鋭く、静かな怒りが彼の中に生まれたことを意味していた。
「っ、落ち着くんだ、ライカ。魔力が漏れているぞ」
「でも、いるんでしょう? オスクリダ島の人達を皆、殺した元凶が」
ぶわり、と音が聞こえる程にライカの髪の毛は逆立っていた。獣の耳もぴんっと立っており、それはまるで威嚇しているようにも見える。
……駄目だわ、このままではライカが飲み込まれてしまう……!
ライカの表情は、アイリスが死んだ家族の仇を討つために復讐を決意した頃の顔と同じだった。
放っておけば、ライカは怒りによって、意識を取り込まれてしまうだろう。
アイリスは握っていた長剣を一度、その場に突き刺してからライカの方へと振り返った。
「ライカ」
そして、手負いの獣のように怒りをむき出しにしているライカを頭からすっぽりと包み込むように抱きしめる。
「ライカ、落ち着いて」
「……」
「あなたは……まだ、堕ちてはいけないわ。復讐の道に身を堕としてしまえば、あなたは本当の意味で獣になってしまう」
アイリスは出来るだけ、ライカを落ち着かせようと、抱きしめながら背中を優しく撫でて行く。
どうか、こちら側には来ないで欲しい。
自分と同じように、己を犠牲にして、復讐の道へと堕ちないで欲しい。
堕ちてしまえば、戻るのは難しくなるだろう。
誰かが、自分を掬い上げてくれない限り。
「……あなたの敵は、私達にとっても敵よ。ライカが果たしたいと思っていることは私達が代わりに請け負うわ」
「アイリス姉さん……」
「だから、あなたはそれ以上、道を踏み外さないで。……リッカがあなたに望んだのは、きっと、そんなことじゃないと思うから」
「っ……」
アイリスの腕の中にいたライカの表情がくしゃり、と崩れて行く。
そこにはか弱い子どもの姿があるだけだ。それまで青白く光っていた瞳はゆっくりと光を失っていく。
ライカが再び、体内で魔力を操作することで、出力を抑えたのだろう。
ライカとよく魔力操作の練習をしているエリックからの報告では、ここ最近の彼の成長はとても著しいと聞いている。
きっと、あっという間にこつを掴んでしまうに違いない。
魔物の血を受けたライカにこれ以上、何かを背負わせるわけにはいかないのだ。
リッカだけではなく、アイリス達もライカが穏やかに生きることを望んでいる。だからこそ、彼が犯そうする前に止めなければならなかった。
手を汚させるわけにはいかない。己の手が赤く染まるのは自分だけで十分だ。
「……本当は、元凶なんかを殺しても、姉さん達は戻って来ないって分かっているんです」
ぼそりとライカは言葉を呟き、アイリスの腕からゆっくりと離れて行く。
「憎いし、辛いし、苦しい、悔しい……。そんな気持ちが溢れるから、自分にとっての自己満足の方法で満たしたいだけなんだ」
「……」
それが、ライカの答えだった。
十二歳の少年が導いた答えにしてはあまりにも寂しすぎる答えだが、それでも彼がむき出しになりそうだった感情から、冷静さを押し出した答えでもあった。
「僕は弱い。弱いから、きっと一矢報いようとしただけで、やられてしまう。……だから、今だけは抑えておきます。……この手がちゃんとした力を手に入れるまで、僕は無鉄砲に仇を取ろうなんて思わないと約束します」
「ライカ……」
今の自分は無力だとライカも分かっているのだろう。
だが、アイリスの場合は無力だと分かっていても突き進んでしまった。こうやって、現状を理解して力を蓄えようとしているライカと自分はやはり別なのだ。
アイリスはやっと安堵の溜息を吐いてから頷き返す。
「分かったわ。……それなら、あなたが納得する力を手に入れるまで、私達があなたの代わりに刃を握るわ」
「……うん」
ライカは悔しさと嬉しさが入り混じったような表情を浮かべて、微かに笑った。
彼がここまで言ったのだ。それならば、自分達は彼の見本とならなければならない。
ライカが道を踏み外さないように、示す標となるために。
アイリスは地面に突き刺していた長剣をぐっと抜き取った。右手はしっかりと柄を掴んでおり、震えてはいないことを確認する。
「……クロイド、やるわ」
「アイリス……」
後悔ならば、何度もした。他にも最善があるのではと何度も考えた。それでも自分は、結局は無力だと思い知らされるだけだった。
それならば、無力は無力なりに足掻こうと、足掻いてみせたいと思うのだ。
「斬るわ。今は、それしかないもの」
生きるか、死ぬかの淵に自分達は立っている。
後悔することがこの先に待っているのだとしても、自分が生き残るためには己を奮い立たせて、剣を握るしかないのだ。
「……分かった。援護は任せろ」
「ええ、頼んだわ。クロイド、結界を解いた後はもう一度、張り直して。……ライカ、あなたは結界の中から動いては駄目よ」
アイリスが肩越しにライカを覗き見ると彼はこくり、と頷き返した。
今から、知り合いだったものが殺されると分かっていても、彼はアイリスを止めることはなかった。
そこには全てを受け止めると言わんばかりの表情があり、アイリスはライカのことを繊細で強い子だと密かに思った。
「……行くわよ」
青嵐の靴の踵を三回鳴らしてから、アイリスはふっと息を吐く。アイリスの言葉と共に、クロイドによって形成されていた結界は瞬時に消え去った。
瞬間、アイリスは長剣を携えて、魔物の前方へと飛び出して、刃で稲妻を描くように薙いだ。




