昏きもの
ブリティオン王国 ローレンス家
その日、セリフィアがエレディテルの執務室を訪れたのは夕方になってからだった。
血を纏ってしまったため、一度、汗を流してから服を着替えることにしたからである。でなければ、汚れた姿のままで兄の前に出るなど、失礼に値するだろう。
セリフィアは一つ息を吐いてから、執務室の扉を叩く。
部屋の中から、すぐに返事が返ってきたため、セリフィアは扉を開けて室内へと入った。
「失礼します」
執務室の窓はまだカーテンが引かれていないため、夕暮れ色の空が額縁に飾られているように見えた。
それを穏やかで美しい光景だと思うことさえ、今のセリフィアには許されていないのかもしれない。
「首尾はどうだった」
執務机に座っているエレディテルは顔を上げることなく、手に持っている書類に目を通していた。
「幹部の魔法使い達は全て殺してきました。ですが……ウィータ・ナル・アウロア・イリシオスは魔法によって己の姿に似せた偽物を話し合いの場に参加させていたようです。本人は教団の結界の中から動いていないようでした」
「ふっ……。やはり、あの魔女は自分の身が一番可愛いようだな」
呆れたようにエレディテルはそう笑って、やっと書類から目を上げる。
「まあ、幹部の奴らを殺してきただけでも良しとしよう。どうせ、簡単にあの魔女の血が手に入るとは思っていなかったからな。あとは……ハオスが上手くやってくれるだろう」
「……ハオスの方は、準備はいかほどなのでしょうか」
「オスクリダ島の件で魔物の数が足りないと言っていたが、何とか決行日までには間に合うらしい」
ハオスが収集している魔物の中には「元人間」だったものもいる。だが、今は自我が失われており、生きるために獲物と判断したものを食らうことしか出来ない獣となっていた。
それらを──教団へと送るのだ。
「果たして、教団の奴らは剣を向ける相手が元人間だと気付く頭を持っているか……見物だな」
鼻で笑いつつ、エレディテルは執務机の上に置かれていたワイングラスを手に取り、口に含んで行く。
「ハオスにしては中々面白いことを思いついたものだ。元人間の魔物を手にかけるとなれば、誰でも躊躇するだろう。その隙を狙うなど、あいつも悪魔らしいところがあるようだな」
エレディテルは契約している悪魔「混沌を望む者」をそれなりに評価していた。
きっと、次の仕事もハオスはエレディテルの望み通りに済ませてくるに違いない。……自分とは違って。
「あの、兄様……。他に仕事はありませんか」
「何だ、随分とやる気だな」
「それは……一日でも早く、兄様の望みが叶うように努めたいからです」
セリフィアがそう答えるとエレディテルは目を細めつつ、ワイングラスを執務机の上に置いた。
「それじゃあ、いくつかの家でも潰してきてもらおうか。ここ最近、随分とローレンス家に盾突く家が増えて来ていて、面倒だと思っていたからな。いくつか潰せば、あいつらも力が及ばないことを認識出来るだろうよ。……ああ、その際には血の回収も忘れないようにしておいてくれ」
「……分かりました」
セリフィアはすぐに頷き返す。エレディテルから仕事を任される時、自分は必要とされている存在なのだと思うことが出来る。
それに心地良さを感じているが、恐らくエレディテルは気付いているのだろう。利用される存在だとしても構わない。
自分が敬愛する兄の役に立てるのならば、どんな仕事だって引き受ける覚悟だ。例え、幾多の人間を手にかけることになろうとも。
それこそが自分の存在意義なのだから。
「今日はもう疲れているだろう。あとはゆっくりと休め。この仕事は後日でもいいからな」
「……お気遣い頂き、ありがとうございます」
セリフィアはゆっくりと頭を下げて、執務室から出る。呼び止められることはなかったが、それでも背中に視線は注がれている気がした。
……兄様には、アイリスが話し合いの場に居たことは伝えないでおこう。
必要な情報は仕事が成功したか、否かだ。それ以上の情報でエレディテルの耳を煩わせるわけにはいかない。
だが、セリフィア自身がアイリスと会ったことをエレディテルに覚られたくはないという気持ちを抱いていることに気付く。
「……次に会うのは、きっと──」
エレディテルが野望を叶える時だ。
その時、再びアイリスと顔を合わせることになるに違いない。
気付けば、自分のお腹が鳴いた音がその場に響き渡った。そう言えば、今日は朝食を食べた後は何も食べていなかったこと思い出す。
人よりも食欲があるセリフィアは空腹を感じ取るとふらりと身体が揺らぎ、眠気も同時に感じた気がした。
「……何か、食べないと」
廊下の壁に手を添えつつ、セリフィアは食堂に向かってゆっくりと歩き始める。疲労が溜まっているのか、身体は途轍もなく重く感じられた。
・・・・・・・・・・
セリフィアが出て行った部屋の扉を眺めつつ、エレディテルはもう一度、ワイングラスを傾けて、赤い液体を口の中へと流していく。
その味を口の中で味わうことは出来ない。自分にはもう、味覚は存在していないからだ。
だが、そんな身体になってしまったことを惜しいなどと思うことはなかった。
夕暮れの中、エレディテルは唇を少しだけ赤く染めながら、妖艶な笑みを浮かべる。
「……全てがつつがなく終われば、セリフィアも用済みだな」
その呟きは薄暗い部屋の中へと静かに消えて行った。
昏き慟哭編 完




