傷付けた理由
アイリスが呆然としたまま、地面の上に座り込んでいると遠くから自分の名前を呼ぶ声が次第に聞こえて来た。
「──アイリス!」
はっとして顔を上げれば、こちらに向かって走ってきていたのはクロイドだった。近づいてきたクロイドはアイリスが無事な姿を確認してから、安堵の溜息を吐く。
外で警備の任に着いていたクロイドだが、屋敷内で何が起こったのか知っているようで、表情は少し強張っていた。
「アイリス、怪我は無いか?」
「クロイド……」
クロイドはアイリスの前に腰を下ろしてから、顔を窺ってくる。そこには心配する色が滲んでいた。
「ブレアさんから、アイリスがエレディテル──いや、セリフィアを追って森に入ったと聞いたんだ。あまり遠くまで行っていなくて良かったよ」
恐らく、クロイドは自分の匂いを追って、ここまで来てくれたのだろう。ブレアにも心配をかけてしまっているかもしれない。
「……セリフィアはもう、いないのか?」
クロイドは周囲を警戒しているようだが、セリフィアの気配を辿ることが出来ないのか、顔を少しだけ顰めているようだ。
「……もう、いないわ」
掠れた声でアイリスは返事を返す。セリフィアはもう、ここにはいない。彼女はアイリスを拒絶して、去って行ったのだから。
「アイリス?」
「……クロイド、私……」
──セリフィアを傷付けてしまった。
その言葉が声として出なかった。
アイリスは自分の顔を両手で覆い、唇を強く噛む。その痛みを感じても、自分を許すことなど出来なかった。
「何があったんだ、アイリス。セリフィアは君に何か、したのか?」
「違う、違うの……。私が……私が、セリフィアを……」
いつのまに、自分はセリフィアの心を傷付けていたのだろう。気付かなかったでは済まされないことを自分はしてしまったのだ。
だって、セリフィアは泣いていたではないか。あんなにも悲痛な表情を浮かべていたのは自分が原因だからだろう。
「私の顔を見た時、セリフィアは辛そうな顔をしたの。その理由が私には分からなくて……」
「……」
アイリスの言葉にクロイドは黙り込む。暫くしてから、彼はふっと顔を上げた。
「状況はブレアさんから聞いているが、それだけだとセリフィアが動揺する理由がはっきりとは掴めないな。……けれど彼女自身、アイリスに対して密かに思うことがあったのかもしれない」
「え?」
「罪悪感を持っていたんじゃないのか。……顔を合わせていた時間は少ないが、君達は……友人だっただろう」
「……」
クロイドはアイリスが取り乱さないようにと、言葉を選んで話しているようにも感じ取れた。
「……ブリティオンの魔法使い達がセリフィアによって殺されたと聞いたが、以前の彼女は誰かを殺すことを恐れていると俺達に話していただろう。……友人である君の目の前で人を殺したと知ってしまえば、そんな姿を見られたくはなかったと思ったのではないだろうか」
確かにクロイドの言う通り、セリフィアはそのようなことを口走っていた気がする。
……私に、人を殺す瞬間を見られたくはなかった、ということは……。そこにはセリフィア個人の感情が存在しているということ……?
そこで、アイリスは気付いた。セリフィアにとって、見られたくはなかった姿を自分は見てしまった。
その際に自分は彼女を傷付けることになったのではないだろうかと。
目を瞑れば、先程の悲惨な光景が瞼の裏に浮かんでくる。真っ赤な光景は、アイリスが剣を握る理由となった色と同じだ。
目にしてしまえば、例え見知らぬ他人でも心の奥が重くならないわけがない。
……まさか、セリフィアは私が気に病むから、見られたくはなかったと思っていたのかしら。
問いかけたくても、もう彼女はここにはいない。自分の手が届かない場所へと行ってしまった。
「……アイリス、大丈夫か?」
クロイドの顔は自分を心配したまま変わることはない。今のアイリスは上手く笑うことは出来なかったため、しっかりと頷き返すことにした。
「あまり無理はさせたくはないが……そろそろブレアさん達のところへ戻ろう。セリフィアが立ち去ったことを報告しに行かないと」
「……ええ、そうね」
アイリスはクロイドと共に立ち上がり、地面に突き刺していたナイフを回収してから半壊した屋敷に向かって歩き始める。
立ち止まってはいけないと分かっているが、アイリスの頭の中ではセリフィアが言っていた言葉が繰り返されていた。
──次に会う時は敵。
セリフィアは自分達の関係は最初から嘘で築き上げられた敵同士だと言っていた。
それならば、何故──彼女の金色の髪を飾っていたリボンが、アイリスが以前、贈った青色のリボンだったのだろうか。
イグノラントとブリティオンの間で行われる話し合いの場に「アイリス・ローレンス」が参加するという情報は向こうの組織には渡っていないはずだ。
それ故に、セリフィアもアイリスの顔を見た時、かなり驚いた表情をしていたように思える。
だからこそ、敵だと思っているはずのアイリスが贈ったリボンを今も使っていることに妙な希望を抱いてしまうのだ。
……本当は、セリフィアは自分の意思を持っているのかもしれない。
ただ、表に出すことをエレディテル・ローレンスに許されていないだけで、セリフィア自身は己の心を持っているならば──。
次に会う時は敵だ。
それでも、自分が彼女の本当の名前を呼んだら、答えてくれるだろうか。
……こんな風に思うことさえもセリフィアの心を傷付けてしまっているのかしら。
アイリスは胸辺りに右手を添えて、重い何かが喉の奥から吐きそうになるのを抑えた。
振り返っても、そこにセリフィアはいないというのに、首を動かしてしまいそうになるのは、きっと自分がまだ、セリフィアのことを敵だと思えていないからだろう。
あれ程までに拒絶されて、それでも友達でいたいと思ってしまうのは甘いことなのかもしれない。
もう一度、名前を呼びたい衝動を堪えて、アイリスはクロイドの後ろに付いて行く。その足取りは枷がはめられたように重かった。




