彼女の名
「……痛くはしませんが、じっとしていて下さいね」
「っ、この……」
フードを深く被っていて、顔はよく見えないがエレディテルはウェルクエントを睨んでいるようだ。
その間にも他の魔法使い達は束縛魔法をエレディテルへとかけ続ける。少しでも気を抜けば、その反動は自らへと返って来るのだろう。
アイリスも思わず、唾を何度か飲み込んでいた。
「ウェルク、気を付けろよ」
「ええ」
ウェルクエントは警戒しながらも、一歩ずつエレディテルの方へと近づいていく。革靴の音が一定の音を保って響いていたが、そこに余裕などはないように感じられた。
ウェルクエントは表面上、平静を装っているようだが、羽根ペンを握っている右手は少しだけ青筋が浮かんでいるように見える。
彼も他の者達と同様に、この状況に緊張感を抱いているらしい。
「……っ……!」
だが、このままこちら側に情報を渡すわけにはいかないと思ったのだろう。エレディテルは固まったままの身体を動かそうと深い息を吐いた。
「……さ……っせるものか……!」
「っ!?」
エレディテルから爆発的な魔力を感じ取ったのか、ウェルクエントは瞬時に結界をその場に張り巡らせていく。
状況を把握していた他の魔法使い達も攻撃を防ぐために結界をすぐさま展開していた。
アイリスもブレアによって形成された結界の中で、襲い掛かる空圧のような衝撃に耐えることに集中する。
「あぁああっ!!」
叫びを上げるエレディテルは身体の内側から、魔力を一気に爆散させることで無理矢理に束縛魔法を解除しようと試みているらしい。
「何て、無茶な……!」
イグノラント側の誰かがそう呟いた声が聞こえたが、暴風の中にかき消えて行く。
アイリスは薄っすらと瞳を開けて、視線の先に見える光景を瞳に焼き付けた。
魔法使い達によって張られた結界の向こう側には大嵐が突如として襲ってきた光景が広がっていた。周囲の壁や机などを風の刃で傷付けて行く様にアイリスは目を逸らしそうになる。
まるで、魔力の暴走のようにも見える光景だが、その中心にいるのは紛れもなくエレディテルだった。
これ程の魔力を有しているエレディテル・ローレンス。
その実態を掴めないまま、お互いの力の差だけがはっきりと開いて見えていた。
気を抜くことが出来ない状況が続いたが、やがて終わりは唐突にやって来る。
瞬間、地響きにも似た轟音と振動がその場に響き渡った。
「わっ……」
身体が大きく揺れたのは、部屋ではなく屋敷全体が揺れたからだろう。
だが、ただ揺れただけではないのは分かっていた。耳に響くのは建物が崩壊していく荒々しい音だ。
気付けば前方には白い煙が上がっており、その煙の中を見ようとアイリスが視線を巡らせていけば、それまで映っていたはずの光景とは別物になっていることに気付く。
エレディテルはこの一瞬で、彼の背後の壁を崩壊させていたのである。
それだけではない。周囲の壁や床には大きな亀裂が入っており、かなり不安定な状態になっていた。
アイリス達が迂闊に踏み込むように動けば、床の崩落に巻き込まれてしまうだろう。そのため、剣を構えている者達は足を踏み出せないでいるようだ。
「はぁっ……はぁっ……。っぁ……」
白い煙の中から、エレディテルが呼吸を整える音が響く。どうやら彼は、自ら爆散させた魔力の中でさえ、立っていられたらしい。
あれ程の威力を自ら放出していたというのに、エレディテルはまだ動けるのだろう。その身体の丈夫さには恐れを抱くばかりだ。
やがて、塵が舞っていた空間は落ち着きを取り戻していく。
霧が晴れるように煙の向こう側からはエレディテルの姿がゆっくりと浮かんできた。
「っ……はぁ……」
何度も荒い呼吸を繰り返しながら、エレディテルはふっと顔を上げる。
だが、アイリスがその姿を目にした時、彼が「エレディテル・ローレンス」ではないことに気付いた。
それまでは顔を隠すようにローブのフードを深く被っていたため、表情を見ることは出来なかった。
だが、束縛魔法で動きを縛られた『彼』が自由を得るために、自らの体内にある魔力を爆散させて、束縛魔法を消し飛ばしたことで、身体を覆っていたはずのローブのフードは吹き飛んでいた。
よく見れば、着ている服はところどころが焼け焦げては擦り切れている。
そして、金色の髪は『彼女』の血で少しだけ汚れており、どこか淀んだようにも見える青い瞳と視線が重なっていく。
以前、見た際の『彼女』の瞳からは想像出来ない程に、歪んで見えた。まるで吐き出せない淀みを溜め込み続けているみたいだ。
「ぁ……」
青い双眸は自分を見て、そして絶望したような表情を浮かべながら、静かに声を漏らしていた。
イグノラント側の魔法使い達にも同様に困惑する空気が流れて行く。
アイリスは目の前に立っているその少女を凝視したまま、小さく呟いた。
それが、夢であって欲しいと心の奥底から願いながら。
「……セリフィア……?」
「っ……」
アイリスが呟いた名前こそが、自分の本当の名前だと決定づけるような反応を『彼女』は見せる。
全てに怯えているとも呼ぶべき虚ろな瞳をアイリスに向けているのは、数か月前に顔を合わせたセリフィア・ローレンスだった。




