抵抗する牙
ブリティオン王国 とある屋敷──。
セリフィアは廊下の壁に手を付いてから、ふらつく身体を支えるようにもたれる。壁にはぬるりと色の付いた液体が付着した。
鼻を掠めていくのは鋭い匂い。それらの色と匂いを作っているのは紛れもなく自分である。
「──はぁっ。はぁっ……。く、はぁ……」
セリフィアの口から滴るのは赤い液体だった。口だけではない。腹部にも赤黒い滲みが出来ており、それが自身の血液によるものだと分かっている。
だが、自分はきっとこのくらいの傷では死なないのだろう。この身体は他人と比べると少々、丈夫なのだ。
「っ……」
痛みはあるが、こんなもの魔法をかければすぐに無痛へと変わっていく。応急処置として止血しておけば、あとはどうにかなる。
ただ、ここに来るまでに激しい戦闘を行ったことで、魔力と血液が少しだけ不足していたため、回復が遅れていた。
早く終わらせなければならないことがあるのに、どうして自分はこうも上手く事を運べないのだろうか。
耳を澄ませば、背後から聞こえてくるのは自分を追いかける荒々しい足音だ。どうやら、まだ自分のことを諦めていないらしい。
「──おい、居たぞ!」
「ローレンスの犬め……!」
魔法を発動させる際に使用する杖を持った男二人が、長い廊下の角から自分を追いかけてきている。
彼らは恐らく、この屋敷の主に雇われた魔法使いと言ったところだろう。
その形相は怒りで満ちており、絶対にセリフィアを殺してやる、という意思が窺えた。
「くっ……」
セリフィアは血が零れることを気力で我慢して、力の限り、その場に互いの行き来を阻むための結界を形成する。
見えない壁によって男達はこちら側へと来ることは出来なくなったようだ。
「くそっ、おい、開けろ!!」
「破っちまえ!」
焦る表情を浮かべる魔法使い達を一瞥してから、セリフィアは止めていた足を再び動かし始めた。
……こんな簡単なことで、僕が失敗するなんて。
今、自分がこの屋敷へと潜入しているのは兄であり、当主であるエレディテル・ローレンスからの命令を遂行させるためだった。
この屋敷の持ち主である伯爵はとある珍しいものを収集しており、今回はその収集物の一つを多額の金で買い取らせて欲しいと交渉を持ち掛けに来ていた。
セリフィアは容姿の良さを活かして、伯爵の懐に入ろうとしたが、向こうはこちらを最初から迎え撃つ策を立てていたようだ。
通された客間で伯爵と買い取りの交渉を始めようとした矢先、足元に突然、拘束するための魔法陣が出現したことでセリフィアは抵抗し、激しい戦闘に発展したのである。
今、ブリティオン王国では魔法使い達の内紛と言っていい出来事が多発していた。
それはエレディテル・ローレンスに従う意思を見せない者による、エレディテルへの抵抗だ。
それまでは絶対的な力を保持しているエレディテルに尻尾を振り、服従する者が多かったが、彼の慈悲なき残虐的なやり方を批判する声がやがて上がり、ついに抵抗するための手を挙げる者が増え始めたのである。
そのため、エレディテルやセリフィアの命を狙う者が増えたのだ。
ローレンス家の戦力であるセリフィアを殺せば、その後ろに居るのはエレディテルと悪魔混沌を望む者だけだ。他に援軍らしい援軍はいない。
この伯爵家も表向きにはローレンス家に友好的に接していたが、裏では実力のある魔法使い達を雇い、知らずのうちに屋敷中を囲って、セリフィアをこの場で殺そうと画策していたのである。
つまり、ローレンス家には知られないように罠を張っていたらしい。
「……ローレンス家は魔法使い達の頂点であっても、孤立しているんだね」
そのことを改めて自覚しても、自嘲の笑みなどは浮かんでこない。自分の存在はエレディテルの意思が阻まれることなく遂行されるためだけに存在している。
今はとにかく、伯爵の収集物を無理矢理にでも奪うしかない。
セリフィアは切れ切れとした息を吐きながらも、とにかく伯爵の収集部屋とされる最上階を目指して進んでいた。
……今日はどのくらい人を殺したんだろう。もう、覚えていないな……。
セリフィアを確実に殺すために、刺客として向けられた魔法使い達の中には一度、エレディテルへと屈服し、その身を捧げる契約をしている者もいた。
だが、今回のように裏切っている者達は多くいるのだろう。……耐え切れなくなったのだ、消耗品として扱われることに。
現段階でさえ、魔力持ちの人間の魔力はエレディテルやハオスの実験に使われ続けている。そこには大人だけでなく、子どもも含まれている。
……分かっている。皆、自分や自分の大事な人を……守りたい、だけなんだ。
だから、ローレンス家へと反抗することを決めたのだろう。
この国にローレンス家の味方はいない。いるのは敵か、すでに屈服しているものか、利用されないようにどこかに隠れているものだけだ。
どの生き方が一番、利口なのかは自分には分からない。
だって、自分はエレディテルの駒だから。
駒は思考と感情を持ってはいけないから。
最初こそ、エレディテルの威光が大きかっただけに、妹であるセリフィアにも下手に出つつ、顔色を窺ってくる者は多くいたが、状況が彼ら達にとって都合が悪くなると知るとすぐに離れて行った。
今のセリフィアはどこに行っても孤立している状態だ。学校でも、組織でも──自分の居場所をどこにも見いだせないままだ。
「はぁっ……。ぐ、あ……ぅ……。ぶ、はぁっ……」
吐き出される血の塊は途切れることなく流れ続ける。
痛い、辛い、苦しい。
それでも、交渉が失敗した以上はエレディテルの命令を遂行するために進むしかない。失敗は許されないのだ。
口元を拭えば、着ている服の袖に赤い液体がべっとりと付着した。
この服も、もう二度と着ることは出来ないだろう。また、新しい服を買わなければ。
ああ、今日は髪を飾るリボンを別のものにしておいてよかった。お気に入りの青いリボンを身に着けていたならば、自分と他人の血で染まってしまっていただろう。
そんなことを思いつつ、セリフィアはもつれそうになる足に力を入れて、前へと進んでいた。




