地下の研究室
ブリティオン王国 ローレンス家本邸
セリフィアは兄であるエレディテルに呼び出しを受けたため、彼の研究室へと向かっていた。
古い石畳の階段はこの屋敷が建てられた当時に作られたもので、地下に通じる唯一の道となっている。
こつり、こつりと靴を鳴らしながら進んでいけば視界は次第に暗がりへと変わっていく。
セリフィアはすぐに暗視の魔法をその身にかけてから、足をもつれさせることなく階段を下りた。
ローレンス家の屋敷の地下には広い空間とも言うべき部屋が広がっている。それは歴代の当主たちが己の研究に没頭するための部屋として作られたものだ。
鼻を掠めるのはいつだって血の匂いだ。まるで、自分達ローレンス家の香水代わりと言わんばかりに、身体に沁みついている。
もちろん、他人の血であるが。
……でも、僕はどうしてもこの地下の研究室が好きにはなれない。
何故か、ここを訪れるたびに身体が震えそうになってしまうのだ。
そのため、エレディテルから呼ばれることがない限り、自らこの場所を訪れようとする気にはなれなかった。
……怖い、と思っているのかな? いや、それよりも……僕は、この場所を深く知っている気がして……。だから、何かを知るのが怖いから、近づきたくはないのかもしれない。
エレディテルが行っている魔法に関する研究は様々だ。
それこそ、兄が契約している悪魔「混沌を望む者」の魂を人間の身体の中に入れたことや、転移魔法陣だってエレディテルの研究の賜物である。
他にもセリフィアでは考え付かないような魔法の研究を彼は生み出し続けている。
……だからこそ、兄様は「あの方」を呼び出せるって絶対的な自信を持っている。たとえ、今まで他の魔法使い達が成功しなかった禁忌の魔法だとしても。
エレディテルは才能の塊だ。そして、魔法使いの誰もが彼のことをローレンス家の祖である「ローレンス」の再来と謳っている。
絶大な魔力を保有し、創造した魔法を具現化する力を持っている。
このブリティオン王国が王制だとしても、その裏の世界──魔法使いが生きている世界を牛耳っているのはエレディテル・ローレンスという天才、唯一人だ。
誰も彼を超えることも抑えることも出来やしないのだ。
……きっと、もうすぐ兄様の研究は完成する。そのために必要なものを僕は揃えるだけだ。
セリフィアはこの研究の細部には関わらせてもらえないが、それでも自分の身体をエレディテルが必要としていることは理解している。
……僕は望まれている。それならば、捧げられるだけだ。
それはとても嬉しいことだと思う。たとえ、兄から家族に対する愛情を向けられていないのだとしても構わなかった。
だって、自分は兄の役に立つためだけに生まれてきたのだから。
小さい頃から、そう教わってきた。
何も、間違いはない。
恐れることなどない。
セリフィアはエレディテルの研究室の扉の前へと辿り着く。扉を三回、ノックしてから室内へと入った。
「──来たか」
「失礼します」
エレディテルは図面を左手に持ちながら、白色のチョークを右手に持って、床に魔法陣を描いている最中だった。
「魔法陣の線は踏むなよ」
「はい」
セリフィアは扉の前に立ったまま、エレディテルの作業が終わるのを待ち続けた。
暫くしてから、魔法陣が描きあがったのか、エレディテルはチョークを作業机の上に置いてから、一つ息を吐く。
セリフィアは遠目から魔法陣を眺めたが、初めて見る魔法陣だったのでエレディテルが新しく創作しているものなのだろうと覚った。
エレディテルは手を叩いてからチョークの粉を落とし、ローブから取り出したハンカチで手を拭く。そして、ゆっくりとこちら側へと振り返った。
「先日のオスクリダ島の件、まだイグノラントの教団の連中が嗅ぎまわっているらしいぞ」
そう言って、エレディテルは鼻で笑っていた。薄暗い中、細めた瞳はどのような感情を込めているのかは分からない。
「……ハオスの報告によれば、セプス・アヴァール博士も含めて島の住人全ての姿が消えていたので、教団側がその原因を探しているのでしょう。あそこは離島であっても、教団が見回りをする場所だったようなので……」
オスクリダ島にはまだ人間がいたはずだ。彼らはセプスの実験体で、そして生きていた。
それなのに一人として姿が見えなくなってしまったのはどういうことなのだろうかと逆にこちらが不思議に思ってしまっているほどだ。
……もしかして、博士の実験に気付いた教団の人間が島の人達を別の場所へ移送したのかも。
それならば、島に誰もいない理由が分かる気がする。そして、そこに一つだけ不安となる要素も生まれてしまうのも事実だ。
「……やはり、博士は教団側に捕らえられたのでしょうか」
「さぁな? だが、教団側から組織宛てに手紙が届いたらしいぞ」
「……」
「恐らく、オスクリダ島の件だけでなく、以前ハオスが教団を襲撃した件について組織側に言及するつもりなんだろう。その話し合いに応じよ、といった要請内容だったらしい」
「組織は話し合いに応じるつもりで?」
「この話し合いに参加しなければ、他国の魔法使い共に『永遠の黄昏』が世界の秩序を乱す魔法を研究していると吹聴するつもりらしいぞ」
エレディテルは明らかに馬鹿にしているような口ぶりでそう告げる。
「恐らく、話し合いの場はイグノラント側に設けられるだろう。そして、その話し合いに向かうのは組織の幹部である人間が数名の予定となっている。……つまり、俺も入っている」
「っ! ……ですが、兄様はブリティオンの外に……」
セリフィアが次に続けようとした言葉を咎めるように、エレディテルが睨んできたため、口を噤むしかなかった。
「……申し訳ございません」
「今は気分がいいからな、許してやる」
エレディテルは肩を竦めながら低い声で笑っている。どうやら本当に機嫌が良いらしい。折檻はないことに安堵するも、セリフィアは顔に出さないように必死に努めた。
「だが、これは良い機会だ。……そろそろ、高い椅子に座り続ける老いぼれ共が邪魔だと思っていたんだ。片付けるにはちょうどいい」
「え……?」
そう言って、エレディテルはセリフィアの方へと真っすぐ身体の向きを変えて来る。エレディテルは妖艶とも言える笑みを浮かべながら、口に弧を描いた。
「セリフィア。お前に新しい仕事だ。なに、簡単なことだ。……掃除は得意だろう?」
吐かれた言葉は命令だった。
抗うことも思考することも許されない命令だ。
求められるのは、エレディテルが望む結果、それだけだ。
「……はい」
その一言だけしか、答えることは許されない。否定も拒絶も許されない。
エレディテル・ローレンスが嫌いなことは己の言葉と存在を否定し、拒絶されることだからだ。
だから、自分は彼を肯定するために頷き続ける。
彼が望む限り。自分は、彼の駒となる。
「話し合いの詳細が決まり次第、お前にも教えよう」
用事はそれだけだったようで、エレディテルはすぐにセリフィアに対して興味を失ったように作業の続きを始める。
セリフィアは兄の邪魔にならないように、静かに一礼してから研究室を出た。
薄暗い廊下には自分一人分の影しかない。いつも、一人だ。この影に誰かの影が重なったことなんてない。
それを今更、寂しいなんて思ったこともない。これが普通なのだから。
……汚れてもいい色の服って、まだ残っていたかな。最近、消耗が激しいから、新しい服を買い直さなきゃ。
セリフィアは顔を上げてから、ゆっくりと歩きだす。
己の意思は必要ない。自分はエレディテルから与えられた仕事を全うするだけだ。──それだけの、存在なのだから。




