反撃
霊体の魔物が翼を広げて、ふわりと宙に舞う。
念のためにこの校舎全体には外からアイリス達の姿が見えないようにと、クロイドが不可視の結界を事前に張ってくれているので、一般人に魔法や魔物が見られることはない。
だが、激しい攻撃でもされたら、さすがに魔防の結界ではないため校舎が壊れてしまうだろう。
「こうなることは分かっていたけど……」
アイリスも剣を素早く構え、靴の踵を叩くように三度鳴らして、床を蹴って高く跳躍する。ふわりとアイリスの身体は魔具である疾風の靴の効果によって、魔物の上空へと飛び上がり、先手を取ることが出来た。
そして、そのまま剣先を魔物の脳天へと貫こうとした時だ。
「駄目よ、アイリス!」
ミレットの焦る声にはっとしたアイリスは魔物とは剣を交えずに、奥歯を噛み締めながら屋上の床の上へと着地する。
「――っ、もう! なによっ!」
急にミレットに攻撃を制止されたアイリスは勢いよく背後を振り返りつつ、空いている左手を握り締めながら頭上へと上げる。
「あのねぇ、あの魔物は霊体よ!? あんたのその剣が効くのは物体があるものだけでしょうが!」
その怒声にアイリスはしまった、という顔をしながら頭を抱える。
ミレットの言う通りだ。
「純白の飛剣」は物体があるものにしか通用しないのだ。以前、メフォストフィレスと戦った時も、霊体の彼には攻撃が全く通じていなかったことを思い出して、アイリスは苦いものを食べたような表情で小さく唸る。
給水塔にいるクロイドも気難しそうな表情で眉を寄せていた。
「あらあら、万事休すかしら? ふふっ……でも、手加減はしてあげないわ。あなたの攻撃は効きはしないけれど、こっちの攻撃は効くように術をかけているの」
ラザリーが描いた彼女の足元の円から再び別の魔物が這いずるように出現する。
今度は胴体が蛇のように長く、頭に角を生やした魔物だ。
「空には鳥で、地には蛇。簡単には逃げられないわよ? 諦めて私に捕まってくれたら、怪我せずに済むわ」
「どうして私があなたに捕まる必要があるのよっ!」
ラザリーの言い方には何故か余裕があるように聞こえる。よほど、この戦いに関しては自信があるらしい。
「……そうか、霊体で攻撃が効かないなら丁度いい」
ふと、頭上からクロイドの冷めた声がした。だが、彼の方へと振り返るよりも先に言葉が綴られていく。
「――冷酷な業火」
クロイドの魔犬化した右手から炎の塊がラザリーに向かって容赦なく放たれたのである。アイリスの頭上を掠めて行った熱は、普通の人間が浴びれば火傷程度では済まない熱を持っていた。
「っ!」
激しい音が過ぎ去った後、ラザリーの足元には焼けこげたコンクリートが黒く染まっていた。
校舎を壊すべきではないとクロイド自身も分かっているだろうが、それでもあえて攻撃力の高い魔法を放った理由としては、こちらは本気だとラザリーに知らしめるためかもしれない。
「霊体に攻撃が効かないならば直接、それを操るお前自身を攻撃すればいいだけだ。……人間相手だ。力加減はしてやるが……手加減は出来ない」
頭上からラザリーを見据えるクロイドの瞳は本物の獣のように鋭い。一度、その瞳に睨まれてしまえば、頭から忘れることなど出来ないと思える程の視線にアイリスは思わず唾を飲み込む。
もしや、彼は怒っているのだろうか。
いや、自分はまだ怪我も危ない事もしていない。怒られる要素は一つもなかったはずだが、とアイリスは首を傾ける。
「俺たちは任務中だ。お前の戯言に付き合ってやる暇はない。さっさと封魂器を置いて帰るんだな」
まるで盗賊のような台詞である。その証拠にハルージャが引き攣った顔で頭を抱えて震えている。余程、クロイドが怖いらしい。
「……あらあら、従順そうな騎士様もいたのね」
でも、とラザリーは言葉を付け加えて視線を足元からクロイド、そしてアイリスへと再び戻す。
「あなたには用は無いのよ、子犬ちゃん」
ラザリーが指を鳴らした瞬間、その音が合図となったのか、待機していた二匹の魔物がアイリス目掛けて突進してくる。
「――ああ、もうっ!!」
靴の踵を鳴らして高く跳躍し、地を這う蛇から逃げることは出来たが、宙には鳥が待ち構えていた。鋭い爪が自分を捕まえようと狙っており、月明かりによって反射していた。
剣で貫くことが出来ればどれ程、楽だろうか。
その時だった。
「透き通る盾!」
クロイドが放った呪文により、アイリスを守るように突如、透明な壁が現れたことで、一瞬にしてアイリスと霊体の魔物の間には見えない壁によって遮りが生まれる。
しかも自分の足元にも見えない床が魔法で作られており、アイリスはそのまま透明な床の上へと一時的に着地した。
「……攻撃は効かないんだろう? だが、仲間を守る盾くらいは効くはずだ」
クロイドが皮肉を込めたような声で鋭く告げる。
そうだ、この防御のための魔法はアイリスへとかけられている。目の前の魔物にかけた魔法ではないため、「攻撃」ではないのだ。
透明な床の上に足を着けているアイリスだが、傍から見れば宙に浮いているように見えるだろう。
「ありがとう、クロイド。助かったわ」
アイリスが後ろを振り返りながらお礼を言うと、クロイドは少しだけ穏やかな表情へと戻った。
さすがに、攻撃が効かないとなると何か他の作戦を練らなければならないが、向こうはそんな余裕を与えてはくれないだろう。
「……中々、考えるわね」
面倒くさいことに首を突っ込んでしまったような表情で、ラザリーが肩を竦めながら呟く。
「当たり前だ。簡単にアイリスには触らせない」
信頼出来る上に頼れる相棒がいると、本当に心強いことこの上ないだろう。
しかし、クロイドが援護してくれるのは助かるが、このまま霊体に対して戦闘が出来ない状態を続けるわけにはいかない。
アイリスはすっと真後ろに視線を向ける。
ハルージャの隣でカインは丸くなって、震えたままだ。彼が抱く怯えから解放するには、この戦いに勝利することだけが条件となっている。
……何か手を考えないと……!
すると突然、カインの傍に控えていたミレットがアイリスに声をかけてきた。
「――アイリス!」
そして、同時に何かを投げ渡してくる。宙に投げやられた細く短い何かは弧を描きつつ、アイリスの元へと引き寄せられるように辿り着く。
「わっ……。何、これ……? 短剣?」
アイリスが左手で受け取ったのは短剣だった。
初めて見る鞘の装飾にアイリスの目が輝く。
「えっ、ちょっと……これ、誰が作ったやつなの……!? え、凄い……。って、この短剣どうしたの、ミレット!」
心が躍るような高ぶりを必死に押し止めながら、ミレットに訊ねると彼女は軽くウィンクをしながら答えた。
「あのいけすかない男から、買ったのよ。女名工として有名なラフィリア・セリーの『清浄なる牙』よ。デートの時間を二時間上乗せというサービスで何と1万ディール!」
ミレットが親指を立てて、疲れきった表情で笑う。
あの交渉をもう一度、水宮堂のヴィル相手にやってきてくれたということか。
「えぇっ! 本当!? 凄いっ! 嬉しいっ!!」
ラフィリア・セリーはかなり有名な名工で、女性ならではの気遣いが溢れた剣を打ってくれることから、女剣士から絶大な信頼を得ている人である。
アイリスも一度はその剣を手にとって使ってみたいと思っていたが、予約優先のラフィリアの剣が手に入るのは何年も先だと聞いていた。
それが今、この手にある。このような場合じゃなければ、もっとはしゃぐのだが、今は何とか自重している。
「もしかするとと思って、ヴィルに交渉しておいて良かったわ。その剣、霊体に効くように作られているの。しかも刃先が霊体に触れた瞬間に浄化してくれる優れものよ! 普通なら7万ディールよ! あとで、代金は払ってよね」
そのような名剣を手にすることが出来るとは思ってもいなかったため、つい心が高ぶってしまう。アイリスは親友の手際のよさと、捨て身覚悟に涙が出そうになった。
「ありがとう、ミレット。今度、お礼に予約一ヶ月待ちのケーキをご馳走するわ! ヴィルさんの分もね!」
「それは余計なお世話よ!!」
純白の飛剣を鞘に収め直し、腰に巻いているベルトから抜いてクロイドの方へと投げ渡す。
「クロイド、この剣を預かっておいてくれる? ……ちょっと、ひと暴れしてくるわ」
アイリスが投げ渡した純白の飛剣をクロイドは片手で受け取ると、呆れたように肩を竦めつつ頷いた。
「……援護はするが、くれぐれも調子に乗らないようにな」
「ええ」
クロイドの心配する言葉に対して、にやりとアイリスは勝気の笑みを浮かべる。
鞘を腰に下げて、短剣をするりと抜く。抜き身の刃は淡い光が包み込むように纏って見えた。魔法で鍛えられている剣だ。その美しさを戦闘中でなければじっくりと眺めたいものだ。
宙には鳥、地には蛇。
だが、それさえもアイリスにとってはただの狩りのように思えてきた。
「さて、やっと本気が出せるわね。これであなたも楽しめるんじゃないかしら。――ラザリー・アゲイル?」
不敵に笑うアイリスは刃先を静かにラザリーへと向けていた。




