掌の上
怒りに満ちた表情をしているアイリスだったが、自分だけでなく、その周囲もハリスに対する怒りを抱いているようだ。
その証拠に自分の周囲からは殺気にも似た怒気が明らかにハリスへと向けられていた。
「何も、私はそこまで……」
アイリスだけでなくブレア達の怒気も感じ取ったのか、すぐに弁明しようとするハリスだったが、その表情には明らかに面倒くさいと思っている感情が混じって見えた。
「では、どのような意味を含めての発言だったのでしょうか。……私、難しい言い回しには敏くないので、どうか丁寧に言葉の解釈を教えて下さりませんか」
「……っ」
怒りを含めたまま、アイリスは冷めた表情で薄っすらと笑った。
今、ハリスが浮かべている表情は、アイリスがハルージャに図星となる反論で言い返した際に彼女が浮かべる表情とそっくりだった。
やはり同じ血筋の人間なのだと自分の中の冷静な部分で妙に納得していた。それでも、まだハルージャの方が子犬が吠えているように可愛らしく思えて来る。
「エルベート課長。あなたはどのような意味を込めて、『対処』という言葉を使ったのですか? ぜひ、細かい説明を付けて、教えて頂きたいです」
「そ、れは……」
たじろぐハリスに対して、アイリスは更に畳み掛ける。
「確かにライカ・スウェンの身には教団にとって脅威になりえる情報が詰まっているでしょう。そして、それがブリティオン王国の組織に伝わり、利用されたならばこちらにとって予想していない何かが起きる可能性だって有り得ます」
机の上に置いていた拳をアイリスは引いてから、ブレアの後ろへと下がった。右手にはまだ、痛みがじんわりと広がるように残っていたが無視したまま話を続ける。
「それでもライカ・スウェンはたった十二歳の少年です。何も知らない、生きる術さえも身に着けていない子どもです。……家族を目の前で失くしたばかりの、たった一人の……」
守れなかったのは、ライカにとって唯一人の家族。
だが、彼の姉であるリッカ・スウェンが望んだことはライカがこれから先も生きて行くことだった。その望みを絶対に絶たせたりなどするものか。
涙を出してはならないと分かっているため、アイリスは左手の拳に爪を食い込ませながら、ひたすら耐えた。
「──ですが、ライカ・スウェンの存在がこの教団だけでなく、世界の秩序に新たな混乱を招くのは目に見えて分かっていることです」
次に響いたのは黒筆司であるウェルクエント・リブロ・ラクーザの声だった。
アイリスははっとして顔を彼の方へと向ける。すると、ウェルクエントは一瞬だけ左目を軽く瞑ってみせた。
……そういえば、会議が始まる前に彼はこちら側の味方になると言っていたわ。つまり、今のは……。
片目をわざとらしく瞑った仕草はまるで、アイリスに向けられた合図のようにも思えた。
……ここは彼が、取引を持ち掛けてきていたことは黙ったまま、話を合わせて進めた方が良さそうね。
「……では、黒筆司もライカ・スウェンの存在をこの世から抹消した方が良いと仰るのでしょうか」
アイリスは表向きにはウェルクエントの挑発に乗ったように見せかけるために、小さく睨んで見せる。
ウェルクエントはアイリスが自分の話に乗って来たと判断したようで、少しだけ口元を緩めているようだ。
「ライカ・スウェンの身体の中には教団が今まで触れることを禁じていた情報が詰まっています。しかし、その情報は決して良いことだけに使われるとは限りませんからね。……それを狙って、彼に近づき、襲う者もいるでしょう」
ウェルクエントは黒筆司という発言力を持った地位に立っている。
そんな彼が、ハリスの先程の発言を擁護するような言葉を述べたことを嬉しく思っているのか、視界の端に映っているハリスが勝ち誇ったような微笑みを浮かべているのが見えた。
……愚かだわ。全てはウェルクエント・リブロ・ラクーザの掌の上で転がされると決まっていることなのに。
全て、ウェルクエントが望んだままに突き進んでいる。
そして、それはライカを守るために必要なことだと分かっているので、アイリスはわざとウェルクエントに合わせている。
そのことを察知しているのは、恐らくウェルクエントと先程、取引の話をしていたブレアとクロイド、そして自分だけだ。
いや、もしかするとアレクシアやハロルド辺りならば、話を進めて行くうちにウェルクエントの思惑に気付くかもしれない。
……巧妙だわ。
ウェルクエントはこちらの味方だと言っているが、それでも彼が望むのはウェルクエント自身が思い描く筋書きだけだ。
そこに彼の一個人の感情が含まれているわけではないため、この会議において誰よりも合理的といえば、合理的なのかもしれない。
「それならば、そうならないように守るべきではないでしょうか。……ブレア課長を含め、魔具調査課ではすでにライカ・スウェンを受け入れる態勢は整えられています」
「ふむ……。つまり、僕が──いや、黒筆司がライカ・スウェンを手にかける方に一票を投じれば、魔具調査課に所属している全員が黙ってはいないということかな」
「ええ、そのつもりです」
そうですよね、とアイリスは平静を装ったまま、目の前に座っているブレアへと投げかける。
「ちなみにライカ・スウェンと魔具調査課の面々はすでに顔合わせを済ませている。ライカ・スウェンのことはすでに魔具調査課に属する新たな部下であり、後輩という認識であるため、そのことを頭に入れておいて欲しい」
ブレアの淀みない発言に、課長の誰かがすでに囲い込み済みじゃないかとどこか悔しそうに呟いたのが聞こえた。
恐らくライカのことを排除する、もしくは利用したいと思う心を持っている者は、それなりに居るのだろう。それらの悪意から、自分達はライカを守らなければならないのだ。
演技だと分かっているがアイリスは感情を強く込めた瞳で、挑むようにウェルクエントを見据えた。
「それは中々、手強いですね」
お互いに分かっている前提で話を進めているが、これは他の課長達に双方で話し合ったことを示すためのただの演劇にしか過ぎない。
ライカの後見人を主張しているブレアだけでなく、魔具調査課という他の課と比べて少し特殊である課が後ろ盾となっている以上、簡単には手を出させないと牽制しておかなければならないのだ。
ウェルクエントはわざわざ、魔具調査課の発言力を高めるための場を用意してくれたようで、そのことには感謝しなければならないだろう。
……まあ、確かに味方と言えば、味方なのだろうけれど。
彼の言葉に嘘偽りはないと分かっているが、それでも未だにウェルクエント自身のことを信じるのは面倒そうだと思ったアイリスは、相手に気付かれないように小さく溜息を吐くしかなかった。




