取引
「……また、取引か」
ブレアは面倒そうな呟きを吐いてから、数度目となる舌打ちをした。
「大事ですよ、取引は。対等な立場のままお互いに議論し、感情を述べ合うには、それにふさわしい『取引』が必要となりますからね」
ウェルクエントはこれまで、どれほどの「取引」をして、深い情報を得て来たのだろうか。ブレアの態度を見る限り、彼女との間に交わした取引は数回程ではないのは確かだ。
……ミレットのことを常々、敵に回したくはないと思うけれど、このウェルクエント・リブロ・ラクーザという人は、それ以上かも。
敵に回したくはない、という感情だけではなく、出来るだけ関わりを持ちたくはないという感情まで引き出されてしまう。
ブレアが彼のことを苦手としている理由が何となく理解出来る。
「まず、この取引において僕が得たいものを提示させて頂きます」
「……何だ」
「ライカ・スウェンの心身に関する安全を絶対的に保障する側に僕も──黒筆司も回るということです。つまり、後見人ではないですが、後ろ盾の一人になりたいと言うことですね。僕を味方に入れてくれたら、色々と便利になりますよ。ライカ・スウェンのことを密かに害そうとしている者達に関する情報を影ながら得ることが出来ますし、それに高い役職である僕が後ろ盾の一人なので、そう簡単に手は出せない状況になります」
何より、とウェルクエントは言葉を続けた。
「魔物の血と魔力を体内に入れられたことで、半魔物化した彼を元の人間に戻すための情報が集まりやすくなります。その情報を無期限で提供してあげましょう」
「……」
持ちかけられた話の最大の手札とも言うべき一文に、アイリスは思わず声を出してしまいそうになっていた。
もし、ウェルクエントの元に集められた情報をこちら側に提供してくれるというのならば、ライカだけではなく、魔物化しているエディク・サラマンも元に戻すことが出来るのではないかと思えたのだ。
それだけではない。隣に立っているクロイドにも魔物である魔犬の魔力が流れているため、何かしらの情報が彼のために使うことが出来るかもしれない。
揺らぎそうになるアイリスの心を現実へと押し留めたのはブレアの一言だった。
「──気を付けろ。このウェルクエント・リブロ・ラクーザという人間はな、相手にとって得難い情報を先に提示し、含みを持たせた言葉で取引を進めて行く面倒な輩だ。惑わされずに言葉の真意を見極めていきなさい」
ぴしゃりと言い放たれる言葉に、アイリスとクロイドは同時に唾を飲み込んだ。
「……はい」
危うく、ウェルクエントが張った罠に入ってしまうところだった。
アイリスは深呼吸してから、もう一度、黒筆司である彼に視線を向けた。
先程とは表情が全く変わっておらず、笑顔のままだ。
感情に起伏がないわけではないと思うが、恐らく彼は感情を笑顔の下に隠したまま、物事を上手く進めることが得意なのだろうと察せられた。
「ブレアさんは相変わらず、手厳しいですね」
「お前と今まで何回、取引してきたと思っているんだ。手札の出し方が違っても、お前の真意が別にあるのは分かっているんだよ、ウェルクエント」
「ふふっ……。お互いに食えない人間ですねぇ」
「お前に言われたくはないな」
慣れた様子で二人は言葉を交わしているが、この間にも相手に隙を見せないようにと交渉は続いているのだろう。
……すぐ感情が出てしまう私には難しいわね。
この手のことは、きっとクロイドの方が得意に違いないとアイリスは密かに思った。
「……まあ、僕の手がブレア課長に通じるのは難しいですからね。この取引において、僕が最も得たいものをお教えしましょう」
ウェルクエントは表情を崩さないまま言葉を続ける。
「ライカ・スウェンはセプス・アヴァールという人間の手によって、半魔物化しました。つまり、魔力無しでも外部から影響を与えれば、魔力を体内に宿すことが出来るという事例が目に見えて実践されたのです。……簡単に言えば、魔力無しは魔力を宿せないと認識されてきたことに対して、その摂理に反した行為が今後も多々起きる可能性があるということです」
人差し指をぴんっと立ててから、ウェルクエントはどこか困ったような笑みを浮かべた。
「もし、これらの情報が教団内だけでなく、他国に広がれば、想像以上に恐ろしいことが起きるでしょう。教団や魔法の存在が知れ渡るのはまだ甘い方です。例えば……戦争において、魔力を宿した元魔力無しの人間が兵士として、多数使われるようになる、とかね」
「……ブリティオンか、いまだに南下を望んでいるローランティア辺りならばやりかねない戦争の仕方だな」
ウェルクエントの言葉通りに、魔力無しが魔力を宿す方法を簡単に身に着けることが常となってしまえば、それまで保たれていた世界の均衡は一気に崩れ去るだろう。
静かに、穏やかに、そして安らかに。
魔力無しも魔力を持っている者も、どちらも幸せになれる世界を望んだ黎明の魔女、エイレーンの願いから程遠い世界になることは確かだ。
「ええ、そうです。……セプス・アヴァールの背後にブリティオンのローレンス家がいるとのことですが、彼らの手によって、ライカ・スウェンや島人達へと注入した薬が完成する可能性ももちろんありますからね。なので……」
するとウェルクエントは眉を少しだけ下げて、申し訳なさそうな表情をしたのだ。これが演技なのかどうかは分からないため、アイリスは見極めようとその後の様子を窺った。
「ライカ・スウェンがその身に持っている情報を他の者達に利用されないように、封印させて頂きたいんです」
まさかの取引の内容に、アイリスは息を詰まらせる。クロイドも驚いているようだったが、ブレアだけは冷静なままだ。
「それはライカの記憶を封印するということか」
「いいえ、少し違います。正確に言えば……魔力を宿す過程や見聞きした情報といった、特定のことに関する情報が外部に漏れ出ないように封印を施すんです。他者が悪意を持って、彼の記憶や身体に触れようとしても弾かれる魔法を施し、そして彼を徹底的に守ります」
それは明らかに、ライカを守ろうとしているこちら側にとって、かなり好条件に思える取引材料だと思えた。
ブレアも訝しんでいるのか、即答はしなかった。
「……つまり、ライカが持っている情報を黒筆司であるお前でさえ、抜き出さないということか?」
「ええ、そのように受け取って下さって構いません」
「……明日は空から槍でも降ってくるんじゃないのか」
動揺は隠しているようだが、ブレアは明らかに驚いている声色で、わざとらしく言葉を零した。
「ブレア課長、本当に所々で僕に対して失礼ですよねぇ。歳は下でも一応、僕の方が立場は上なのに」
「直属の上司じゃないから、怖くないな」
ふんぞり返るブレアに対して、ウェルクエントは小さく噴き出した。
「ははっ……。そういう強気なところが、僕にとっては喋りやすいんですけれどね」
年頃の少年のようにウェルクエントは口元に手を当てながら笑っている。
見た目は本当に自分達とは変わりがない少年なのに、ブレアと対等に言葉でやり合えるとは想像以上に手強い交渉者だなと、アイリスは相手に気付かれないように顔を引き攣らせていた。




