安堵の言葉
すると、黙って話を聞いていたクロイドがふっと顔を上げてから言葉を零した。
「……俺に接触を試みようとしていたのは、もしかして魔犬に呪いをかけられていることが関係しているのでしょうか」
思わずはっとして、ブレアの方を見れば、彼女はその通りだと言うように深く頷いていた。
「そうだ。……魔犬に呪いをかけられて、クロイド程にその力を制御出来ている奴は他には確認出来ていないらしい。色々と聞きたい様子だったが、私が突っぱねさせてもらった。クロイドを守るとお前の保護者にも宣言したからな」
クロイドの保護者、それはマーレ・トレランシアのことだ。クロイドが教団に入団した際は、表立っての入団ではなかったと聞いている。
その際にも、ブレアやマーレ、そして上層部の間で様々なやりとりがあったのだろうと察せられた。
「だが今回、会議に参加するようにと要求してきたことの裏に何か別の思惑が隠されているような気がしてならないんだよな……」
まだ、諦めていなかったか、とブレアは鬱陶しそうに言葉を漏らした。
「嫌な奴ではないんだが、こちらの考えを全て見通して行動しているような奴だから、本当に扱いづらいんだ。……だから、お前達が会議に参加したくはないならば、私はその気持ちを尊重したいと思う」
「ですが……」
「深く考えなくていい。ウェルクエントを追い返すための手札なら、私はまだたくさん持っているからな。……だが、魔犬に関する情報を知りたい場合は冷静な思考を持って、ウェルクエントと取引して欲しい」
「……」
アイリスとクロイドはゆっくりと顔を見合わせる。魔犬に関する情報で手元にあるものはかなり少ない。だからこそ、自分達が知らない情報があれば知りたいと思う。
……それでも今は。
クロイドの瞳を見れば、彼はアイリスの決断に従うと言った様子で目を細めていた。恐らく、彼は自分がどのような選択をするのか、すでに察しているのだろう。
「……会議、参加します」
知らずのうちに、アイリスは両手を握りしめて拳を作っていた。
「証人として参加出来るならば、話し合いにおいて、ライカの立ち位置について直接的に関わることが出来るということですよね?」
「……そうだ」
アイリスの言葉を肯定するようにブレアは頷く。
「それならば、私は私の感情と意思を持って、ライカを守ります」
ウェルクエントがどのように接触してくるつもりなのかは分からないが、今は魔犬のことよりもライカの身の安全を保障するために、慣れていない戦場に向かいたいと思ったのだ。
……向こうから、情報提供の交渉を持ちかけられることもあるかもしれない。それならば、しっかりと気構えておかないと。
水宮堂のヴィルの弟とは言え、自分にとっては初対面の相手だ。どうにか隙を見せないように接するしかないだろう。
「……お前が良い方向に変わることが出来て、本当に良かったよ」
「え?」
今、ブレアは何と言ったのだろうか。言葉が小さすぎて聞き取れなかったアイリスは思わず聞き返してしまう。
「いや、何でもない。……クロイドもアイリスと同様か」
「はい」
「ふむ……。出来るならば、腹に黒い物を抱えている上に口うるさい奴らにお前達と顔を合わせるようなことはしたくはなかったんだが……」
恐らく、魔的審査課の課長であるアドルファス・ハワードのような人物のことを指しているのだろう。
あの手の人間は、呼吸をするように嫌味を口にするので、アイリスも苦手としていた。
それでも以前と比べれば、辛抱強くなった方なので、嫌味を言われたくらいでは剣を抜いたりしないと思う。……多分、だが。
「……確かに、お前達の意見がある方が、こちらの要望が通りやすくなるかもしれないからな。だが、お前達二人を快く思っていない輩がいることも心得ておいてくれ。……まぁ、口先だけの危害を加えようとする奴には、休日に雨が降る呪いをかけるつもりだけれどな」
ふっとブレアの表情に翳りが浮かんだように見えたが気のせいだろうか。瞬きをした次の瞬間には、ブレアは課長らしい表情に戻っていた。
「では、会議室に一緒に向かおうか。場所は知らないだろう?」
「そうですね。どうぞ宜しくお願い致します」
課長達や上層部が揃って議題を議論する会議室は総帥であるイリシオスが普段、生活している塔の中にあるらしい。ただ、会議室が置かれている場所の階数までは分からないでいた。
これ以上、お互いに報告することはないだろうと思ったアイリス達は今度こそ課長室から出るために身体の向きを扉へと向ける。
「──アイリス、クロイド」
再び自分達を呼び止める声に、他にも何か話すことがあっただろうかと首を傾げながら振り返ると、そこには悲愴な表情を浮かべるブレアがいた。
先程までの冷静な表情はどこかに行ってしまったようで、ブレアは顔を歪めたまま、言葉を口にする。
「二人とも、よく無事に帰って来てくれた」
「っ……」
零されたのは、安堵の言葉だ。
恐らく、その言葉をライカの前で伝えることは出来なかったので、今までずっと我慢していたのだろう。
オスクリダ島で何が起きたのか、セプス・アヴァールに何をされそうになったのか、人間だった島人達が魔物と化したものをどう対処したのか──。
何もかもをブレアへと話している。
その上での、一言だった。
「本当に、無事で……良かった」
その言葉に、自分達は生きて、ブレアの前に立っているのだと改めて思い知った。
今、思い返せば、オスクリダ島での行動は自分の生死に関わることがいくつもあったと思う。だからこそ、ブレアはそう告げずにはいられなかったのだろう。
「……」
上手く、言葉に感情を乗せて紡ぐことが出来なかったアイリスとクロイドはただ、真っすぐとブレアに視線を向ける。そして一度、二人同時に深く頭を下げた。
任務を遂行する上で、命の危険は付き物だ。それは自分達もブレアもちゃんと分かっている。
だが、そのことを最も理解している彼女があのような悲愴な表情を浮かべる程に、今回の任務はかなり危ういものだったのだろうと感じ取れた。
……私もクロイドも、生き残っている。
そう表現してしまう自分が、憎らしく思えた。
生きている限り、ブレアに今のような表情をさせてしまう日が何度も来るのだろう。そして、ブレアもきっとそのことを理解している。
だから、何度も任務があるたびに「気を付けて」と「おかえり」を言ってくれるのだ。言葉に潜めている感情を静かに乗せて、願いのように告げるのだろう。
視界の端に映るクロイドも口を真っすぐに結んだまま、何かに耐えているようだった。彼もブレアに対して心配をかけたことを申し訳なく思っているのかもしれない。
アイリス達はそれ以上を言葉に出来ず、そのまま課長室から出るしかなかった。




